人生でも、物語でもだ。
怪我を恐れちゃ何も出来ないというけれど、
怪我をするのは怖いものだ。
だからなるべくノー怪我で、成功を得たいと人は思う。
だから一発逆転とか、ラッキースケベとかが人気で、
社会は失敗や立ち直りを許さず、
上司は「成功する見込みはあるのかね」と、
芽をつぶしてゆく。
(こうしてこの10年、日本は硬直化した。
トリガーは震災と、原発事故での不信感と、
その前のリーマンショックなのだろう。
ついでにいうとパナマ文書とかね)
歩くことを、あなたはどうやって学んだのか、
覚えているだろうか?
覚えていないだろうね。
子供のいる人は、観察しておくといい。
歩くことを覚えるのは、転ぶことで覚えるようなものだ。
足をどのタイミングで出せばギリギリセーフか、
ギリギリアウトだとどう転ぶのか。
頭の位置、手のふり。
あるいは階段での無茶な姿勢。
あるいは遊具での体の使い方。
子供の頃は体が柔らかいから、怪我してもすぐなおる。
(なんといっても頭蓋骨がまだ固定してないのだ)
成長点の勢いもある。
だから、怪我できるうちに怪我をして、
怪我をしない歩き方と、
怪我をする歩き方の境目を、体にしみこませる。
だから、逆立ちしながらダッシュ出来ないことや、
地下へ続く階段を降りるときは頭上に気をつけるとか、
梯子を上るときに片手を離して調子に乗ってはいけないことなどを、
無意識に覚えていくわけだ。
それには、痛い目に遭わないとわからない。
怪我をしたことがない人は、
梯子を上るときに両手を離すかも知れないのだ。
歩くことなどの、体を使うことは基本こうである。
走りながら曲がったり飛んだり、
ジャンプして何かをつかんだりすることなどは、
怪我をしてはじめてタイミングや力の加減を覚えていく。
実際、現在コンピュータの学習モデルで最も成果を出した、
ディープラーニングというアルゴリズムは、
正解と不正解を無限に試行錯誤して、
なんとなくの正解の境目を自己学習するようになっている。
(アルファ碁は、自分対自分の対局を、人が一生かかって対局する、
何百倍も経験して、正解と不正解を経験している)
体を使うことだけではない。
頭を使うことや、対人関係でも同じだ。
怪我をしないことには、力の加減がわからないのだ。
勉強の加減。やりすぎの加減。
人を傷つける言葉を言う加減。
仲直りする加減。
人の話を聞く加減。
人に注意する加減。
こんなのは、初手から出来る人はいない。
ちょいちょい火傷しながら、
加減を覚えて、調整できるようになってゆくのだ。
初心者ほど、腫れ物のように触ったり、
加減が分からなくて壊してしまったりするし、
慣れた人ほどギリギリのラインをキープしながら、
最高のパフォーマンスを出してゆく。
なのに、今日本では、
初手で成功せよ、という空気が蔓延していて、
失敗は社会的死、みたいになっている。
だから、「成果を出す」人は、
実質の成功はおいといて、
上司が認めた人のみ、つまりコミュ充だけ、
というのが日本の社会を歪めている。
コミュ充は、成功失敗を、話術でごまかしていけるからだ。
こうして、日本は、実質の成功はせずに、
プレゼン上の成功、理論的な成功、机上の空論的成功を信じ、
実体はボロボロ、ということになりかかっている。
まあ、日本はどうでもいい。
あなたの人生はどうか。
あなたの書く物語はどうか。
主人公はどういう怪我をするのだろう。
それは肉体的な怪我か。
精神的な怪我か。
人間関係的な怪我か。
社会的な怪我か。
どういう無理を無意識にして、
どういう怪我をし、
どういう痛みを経験して、
そして、
どうやって克服して、
自由を得たのか。
「成長には痛みが必要である」とか、
「成長には代償が必要である」とか、
「何かを失って初めて何かを得る」とか、
よく言うけれど、
もう少し物語的に見ると、
上のようなことであると僕は思う。
これはほとんど、
ミッドポイントの見せかけの成功から、
ボトムポイントからの第二ターニングポイントのことである。
つまりここを上手く書けるには、
怪我と加減を覚えていくことと、
怪我する前以上に、
ギリギリのラインをキープしながら、
最高のパフォーマンスを出していけるようになること、
を、
具体的におもしろく書けなければならないということである。
そもそもそういう、小怪我と小克服をしながら、
事態は進んで行くものだ。
コンフリクトは摩擦でもあるが、
小さな擦過傷を抱えながら、
人は目的を遂行しなければならないわけだ。
つまり物語とは、
傷つけあい、回復しあうことで進行する。
そのうち一番の大怪我をするならば、
それがボトムポイント(75分あたり)になるべき、
というのが、三幕構成理論における経験則である、
というだけのこと。
この経験則に逆らって、
最初にものすごい大怪我を負うところからはじめてもいい。
トラウマを抱えて克服するタイプの話には、
このパターンが多い。
(ちなみに、
僕はデジタル入力を克服するために、
腱鞘炎という怪我をした。
それを克服して、炎の中から甦ったのが、
カタナ式という武器だ。
怪我をする前よりも、30%以上合理化されている。
つまり成長したわけだね。
ざっと半年かかったけど)
あなたは怪我を恐れて何もしないだろう。
社会も、怪我を恐れて何もしないだろう。
それでもいい。
あなたの物語の中の、(他人である)主人公が、
怪我をして、加減を知り、それを克服して成長していけばいい。
(勿論それにリアリティーを与えるのは、
あなたの実体験や、他人の実体験から抽出された、
なにかである)
2017年06月07日
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