2017年06月10日

「俺の話を聞け」「私という自己表現」ではない

これは初心者でも中級者でも上級者でも、
うっかりやってしまうことであり、
こだわりや思い入れが強かったりすると、
余計に周りが見えなくなり、
より「自分の言いたいことが伝わらない」
「私が表現できてない」と悩むことになる。

そうじゃないんだ。
「この面白い話を、一緒に楽しもうよ!」
にならないとダメなのだ。


ここのところを間違うと、
「私は特に言うべきことがないから、ストーリーが書けない」
「これを特に言いたい」
「変にストーリーをプロデューサーや編集者に改訂されて、
私のやりたいことではなくなった」
「ここが一番おれっぽい」
「私らしさはこの作品が一番出ている」
「ひたすら自分とは何かに向き合った作品」
「自分らしさってなんだろう」
「私の好きが詰まってる」
なんて誤りや悩みを抱えることになるのだ。

これは、間違っている。


これらの間違いに共通しているのは、
「作品=私」という構図だ。
作者、という言葉がその誤解に寄与していると思う。
作った人の意味であり、
作品=その人そのものではない。
作者は主人公ではないし、
そのテーマは作者の主張ではない。

作者は、その作品を最初から最後まで作った人、
というだけである。
ダビデ像を作った人はミケランジェロであり、
ミケランジェロはダビデではない。

それは、沢山の作品を作ればわかってくる。
ダビデの他にたくさん像を作ったり絵を描けば、
そのどれがミケランジェロの本当かなんてことは、
どうでもよくなる。

この誤りを抱えるのは、
ようするに数本程度しか作ったことなくて、
いっぱいいっぱいのヒヨッコなのである。

僕が数を書けというスパルタ主義なのは、
さっさとこのヒヨッコ初心者から抜け出せ、
というアドバイスの、
もっとも現実的に効率のいい方法だからである。


作品が一本とか二本だと、
その思い入れに視野が狭くなってしまう。
だって作品を仕上げることは、
とてつもなく労力がかかるからだ。
毎日毎日そのことばかり考えて、
手間をひたすらコツコツ積み、
もはや作品が自分なのか自分が作品なのか、
境界が曖昧になるほどどっぷり浸かるからである。

だけど、作品づくりは常にそうだというだけで、
それは、視野が狭いいいわけにはならない。

女を一人しか抱かなかった男と、
1000人とやった男を比較すれば、
話は分かりやすい。

やりちんは、一人の女に手を抜くわけではない。
常に全力だろう。
それは、一人の女しか抱かなかった男と、
同じくらいの手間をかけている。
しかし、一人の女しか抱かなかった男は、
この女は俺のものだと、強く思いすぎるだろうね。


作品=私ではないのだ。

その面白い話、
その深い話、
そのワクワクする話、
その感動する話を、
作った人が作者というだけで、
その作者は次に別の話を作るし、
前は別の話を作っていたのだ。
たくさんたくさん作る話の、それは一本に過ぎない。


どういう気持ちで作るのがよいのか。
「面白い話を思いついたんだけどさ」
と、誰かとその面白さを、
一緒に楽しむようにしなければならない。
話終わったら、
「な?」「いやあ、確かに面白かったわ」
となり、
何かが相手に残る。

相手と自分の間に、その話が位置しなければならない。
相手と自分の、丁度中間距離に、作品が位置しなければならない。

それは、作品=私という自家撞着とは、
全く違う何かである。
作品=私だと、相手がいないのである。


勿論、私だけが作品を楽しむのであれば、
これはどうでもいいことだ。

しかしストーリーというのは、大衆芸術である。
なるべく多くの人、
出来るなら全員が、この話を共有するのが理想だ。

ということは、
あなたがスターである必要なんてなくて、
そのストーリーがスターになればいいのである。

(スターがストーリーを書いても、
そのストーリーがスターにならないのは、
その作者に実力がないだけの話だ)

それはもはや、「あなたの」ストーリーである必要はない。
みんなのストーリーという、
共通財産なのだ。
黄金期のジャンプで育った人は、
もはや北斗の拳もキン肉マンもキャプテン翼もキャッツアイも、
聖闘士星矢もドラゴンボールもスラムダンクも、
パブリックドメインぐらいの意識だろう。
作者は、制作の労苦の対価を、
著作権保護法に従って、横取りされない権利を有する、
というだけのことだ。
(過度な著作権保護、たとえばカスラックの批判をしたいが、
ここでは脱線するのでやめておく)


あなたの作ったストーリーは、
みんなが等しく楽しむものであるべきだ。
だから「みんなのもの」「あなたとみんなのもの」
であり、
「あなた一人だけのもの」ではないのだ。

だから、
「みんなここにおいでよ。いっしょにあそぼう」
と言えるものが、
正しいストーリーで、
「俺の話を正座して聞け。終わったら理解度テストをするぞ」
「私は強く皆に訴えたいことがある」
「これは私そのもので、それを味わえ」
なんてのは、
ただの押し付けで、
間違ったストーリーである。


それは、コミュニケーションなんだ、
といえば分かりやすいんだけど、
一方的な語りかけという意味で、
ストーリーテリングは、コミュニケーションではないのだ。
コミュニケーションの形をしてないのに、
コミュニケーションをしなければならないところが、
ストーリーという形式の、
難しいところかもしれない。


引き込め、とか、押し付けるな、
とかは、コミュニケーションのことを言っている。

おもしろい遊び場があるんだけど、ちょっとのぞいていく?
ここは、大体こういう感じだよ。
どうだい、楽しそうだろう?
帰る?もうちょっといる?
もう少し奥までいこうか。
朝まで帰らないコースだけど、面白いからいいよね。
いやあ、満足だったね。
最高だった。
そして、ここはこういう意味が、あったんだよね。

こういうコミュニケーションこそが、ストーリーテリングだ、
ということだ。


俺の話を聞けとか、主張しろとか、
あなた独自の見解や立場を表明せよとか、
あなたの個性がみたいとか、他にないものを見せろ、とか、
そういうことを言うやつは、
このことを理解していない、
表現者としても指導者としても、観客としても素人なのだ。


(こういう論文や説明文は、
基本的に僕独自の主張を、押し付けている場である。
俺の話を聞いたか?
じゃあ今日はこのへんでおしまい)
posted by おおおかとしひこ at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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