たとえばメーテルリンクの「青い鳥」。
これが落ちが決まっていない見切り発車のわけがない。
最初から、幸福とは家にあったのだ、
という結論のための出だしである。
だから家からスタートする。
一周するためだ。
家からスタートして、
たまたま家に帰ってきて、
アドリブで落ちを思いついたのではない。
勿論、構想時はそうかも知れない。
「幼い兄妹の、幸福の青い鳥を探す旅」
みたいな、一枚絵から始まったかも知れない。
さらにその原型は、
「兄妹が幸福を探す」ぐらいで、
幸福の象徴である、(架空の)青い鳥は、
あとで付加されたものかも知れない。
旅を面白おかしく描くことは全然可能だけど、
で、この話の落ちはなんだっけ、
と考えたときに、
「どこかでついに青い鳥を見つけて、
そこに永住する、あるいは連れて帰ってくる」
という話よりも、
「実は家にいた」という落ちのほうが、
面白いぞと思いついたはずだ。
前者の話では、特にテーマなるものは存在し得ない
(別にこの骨格でないものを作る必要がある。
たとえば勇気のない二人が勇気を出すことで、
青い鳥を得るなど)
のだが、
後者の構造だと、
「家こそが幸福なのだ」
「人間はないものねだりをする」
「本当の安心こそ幸福だ」
「人間は何にでもケチをつけたがり、比較したがり、
かつ自分の立場に安心したがる」
なんてことを、構造として持っていることに気付く。
ということで、
青い鳥は家にいた、というどんでん返し落ちが、
なかなか面白い物語になりそうだぞ、
と、書ける確信を得られるわけである。
この時点で、
トップシーンは家に確定する。
落ちとペアにするためだ。
勿論、旅している途中からはじめてもいいのだけど、
家に帰ってきたときに、
その家が初出であるよりも、
最初に印象があったほうが、
「幸福はここにあったのか!」
という驚きが大きいはずだ。
ということで、この物語の基本構造は確定して、
その間では、基本何をやってもいい、
という構造ができあがる。
「幸福を探す」「しかし見つからない」
ということさえ担保できれば、
隣の家、金持ちの家、
となり町、他の国、
過去や未来や霊界など、
どこにどういう旅をしようが構わなくなるわけである。
(スプレッド)
そのときに、かつては青い鳥を飼っていたが今は失った人
(没落した役者など)、
同じく青い鳥を探す旅に出ている人、
青い鳥を捕まえたが殺してしまった人、
王様が青い鳥を求めて戦争した国、
なんかに出会うことも可能だろう。
それはすべて、「幸福とはどういうものだろう」
という象徴の描写になるはずだ。
「人は幸福を求めて、ないものねだりをする」
なんてことを強く描いてもいいし、
「幸福の時間は短く、不幸な時間の方が長い」
なんてことを強く描いてもいい。
それは落ちとペア、もしくは反対のことになるはずだ。
ここまで構想すれば、
あとはテーマを決めて、
冒頭から書いていけばいい。
テーマは決まっている。
だから、冒頭も自動的に決まる。
これが書ける人の書き方である。
アイデア、象徴、
落ちやテーマ、
そのための出だし、
間の展開と、
考えた上で、
全体を整えてから
(おそらくキャラクターや固有の小エピソードも、
このときに準備する。同時平行もある)、
ようやく、
一文字目を書き始める。
書けない人は、
アイデアが湧いた瞬間に書き始める。
兄妹が、青い鳥を求めて、
どこかの国で会えなかった場面から、
書き始める。
で、「次どうしよう?考えてないぞ」と、
詰まり、思いつかず、挫折する。
そのあとを思いついたとしよう。
たとえば青い鳥を持っている人がいて、
高価なものと取引するのだがそれは偽物であった、
なんてのを思いついたとする。
で、書き足すのだが、
また同じ壁にぶちあたる。
「次どうしよう?考えてないぞ」と。
もちろん、書いている途中に、
「家にあったのか!」という落ちを思いつくかも知れない。
じゃあ頭からまた書き直すわけで、
これまで書いた数シーンを破棄せざるを得なくなる。
あるいは、これまでのシーンが捨てられず、
家から無理矢理この数シーンに繋ぎ、
「幸福は家にあったのだ」という落ちに相応しくない、
ベストでない展開の数シーンが放置されることになるわけだ。
どちらのやり方が、
頭から尻まですっきりした、話として腑に落ちるもの、
であるかは明らかだ。
よく作家が、
一文字目を書くときは、最後まで出来ているというが、
頭の中に全文字があるのではなく、
このような、構造や話としての腑の落ち方が、
最後まで出来ているという意味だ。
(そして頭の中にではなく、
アイデアノートがあるはずだ。
何故なら、頭の中に一時に呼び出せる要領は小さく、
物語全体の構造のほうが大きいため、
紙で一覧するほうが合理的だからである)
物語は論文ではない。
構造が決まっても、
目の前の文の鮮度で出来が決まる。
論理を確定してから、
テイク1の鮮度で書くのが、
僕はベストであると考えている。
ということで、
落ちも構造も決まってなくて、
アドリブで書いても、
何もいいことはない。
カオスの度合いが高まるだけで、
一向に秩序には収束しない。
あれを大事にすればこの伏線が無駄になる、
ということばかりになってゆく。
結論もないのに書き始めるのは、
このような危険を伴う。
まあ、大火傷しないと覚えないんだけど。
2017年06月11日
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