2017年06月12日

デジタルは人を幸せにしない:原理的に、タイピングは手書きに勝てない

カタナ式を使いこなすと、手書き程度には速度が上がります。
僕はその領域に来ていて、
別に他のメソッドでもいいんですけど
(フリックとか音声入力でも)、
結局手書きに勝てないんだな、という話をします。

頭と目と指がどの時点にいるか、という話。
仮名漢字変換を用いる限り、
「目が過去をチェックする」ぶん、
タイピングは遅れるという話。


指がしゃべるということはどういうことだろう、
と常に考えている。

それは最近、カタナ式が速くなってきて、
手癖で、
違う言葉を先に手が打つ誤打鍵が増えてきたからだ。

頭でまだ言葉も決めてないのに、
この流れだと次はこの言葉だろ?
と、手が先回りようになった、
という感覚である。

で、頭の方は、いや、その流れじゃないな、
と判断して、
いや、これは誤打鍵である、
と判断する。

手が頭を追い越す。
そんなバカなということ。

でもこれは自動化された運動には常にあることで、
たとえば運転やボー ルのフライを取るとき、
頭で考えていたら間に合わないことが多い。
まず体が先に動いて、
理解はあとからついてくることが多い。
むしろ、
理解をせずに体の判断するままに、
体を動かすことが、
スポーツの楽しみであったりもするわけだ。
頭を麻痺させる楽しみというべきか。

(酒でも同じく、頭を麻痺させることができる。
僕は酒が好きでスポーツが苦手だけど、
たぶん道具が違うだけで、
同じく麻痺を楽しんでいるのだと考えている)


で、タイピングも一種の運動記憶であるから、
ある流れの次は、出現する確率が高いほうに指が動くのは、
自動化された運動、ということになる。

でも、言葉や思考は定番を避けようとするから、
そこで指が準備するベタな流れと喧嘩し、
誤打鍵が発生するというわけである。


指がしゃべる領域とは、このへんのことのような気がする。
僕は親指シフトをやろうとしてあきらめた口なので、
本当のところは分からないけれど。


頭の中で思う時間よりも指が動き終わるのが遅い、
QWERTYローマ字入力に対して、
指が同時、というのが「指がしゃべる」のだとしよう。
それでいうとカタナ式は、
「指が同時」よりも「未来に先回りする」くらいに、
なってしまったということだ。

で。

この誤打鍵を避けるには、
「指よりも先に、次の言葉を確定する」という、
頭で調整することが正解だと思った。

頭(未来)、指(未来)、指(現在)という順番。
少し先の思考に少し先の指の準備がついてゆき、
現在は少し過去の指の動きがいる、
という状態。

なんだかややこしいけど、
車の運転はこうしてるはず。
「次の交差点で左だな」(左折のつもりを体が準備)
(現在は直進を維持)
なんてことは普通にあることだ。


で、本題。

このときに、目は何を見てるだろうか?


運転の時は、現在の直進を見てる。
あるいは、未来の左折交差点を同時に探している。

手書きの時は?
現在の文字を見る?
いやいや、現在の文字は見ずに、次の言葉を書くべき空白を見てるよね。
もちろん、書道のように丁寧に書くときではなく、
創作文を書くときの話。
手で書いた軌跡が間違ってるはずはないので、
確認せずに、
目は次を見ている。

つまり、
思考と目:未来
手:現在
という構造だ。

運動では、
思考と目:未来
体と目:現在
という構造。
慣れてきたら現在を目で見ずに、
未来に起こりうることだけを目が確認するかも知れない。
野球のうまい人は、ボールだけを見ていて、
自分の体やグローブなんて見てないよね。


で、タイピング。
僕がまだ達人でないからかも知れないが、
目は未来を見ながら、
変換の確認もしている。
つまり、目は、
未来、現在(タイピング中の誤字チェック)、過去(変換したときの変換チェック)
の、みっつの時間軸を移動しなければならない、
ということに気づいた。

タイピング中の誤字チェックが、
自動化されて達人になれば、
運動の達人と同様、
未来だけを見ていればよくなり、
それは手書きと同じになる。

ところが、
変換チェックということがある限り、
「過去の思考が文字として定着したかどうか」の部分が存在してしまう。
これは、
単語や文節ごと変換しても、
一文ごと変換しても、
あるいは数文一気に変換しても、
同じことである。


誤変換はあとでチェックする、
という速記のアルゴリズムを使えば、
何も見ずにスペースだけ打って、
未確認で未来だけを見てられるけど、
それって二度手間だよね。



そういうわけで、
仮名漢字変換という原理の範囲内では、
手書きに勝てないということが判明した。

デジタル送稿しやすくするとか、
印刷しやすいようにするとか、
そういうことしか、デジタルが勝てるポイントはない。
しかし、我々の第一目的は、
「素晴らしい文章を書くこと」であり、
デジタル変換をすることが邪魔になるのなら、
それはディスアドバンテージである。


漢字直接入力(漢直)ならばそれを覆す可能性がある。
でも流石にそこに手を出すのはねえ。



そういうわけで、
メールで指示するやつは、
やっぱりバカだ。
次善は電話で直接話す、
ベストは会って話すのがいい。

思考は未来にいる。
手と目が過去にいるタイピングは、
原理的に遅いということである。



勿論、コピータイピング(既に完成している文章を写す)についてはその限りではない。
だから、
カタナ式の用途は、
「大量手書き原稿のデジタイズ」でしかないということである。
僕の手書き文字のデジタイザ(カメラ→AIで癖を読み取り、デジタル文字変換)が出来れば、
コピータイピングは不要になるかも知れない。


ついでに、
紙は100年残るけど、
ハードディスクはどうかな。
クラウドやSSDはどうだろう。
こういう所の発言は、紙に残すべきもの?
そういう線引きも曖昧なまま、
先に時代が変わってしまうような気もするけどね。


さて、
次の入力方法はなんだ?

結局、
「思考に寄り添い記録して行く」ことは、
手書きに勝てないんだろ?



昨日編集室で、未来の編集機について話していた。
マイノリティレポートみたいに、
空中に浮いてるクリップを、ここからここまでと手で持ってきて、
シーケンスにスワイプして流す、みたいな話をしていて、
じゃあ、吊ってあるフィルムを手で持ってくる、
フィルム編集がベストじゃねえか、
みたいな話をしていた。
つまり、
編集の本質(入れ替えや駒編集や切り返しやヨリヒキやモンタージュ)は手で学べばよくて、
スピードをデジタルが稼いでいるに過ぎず、
つまりデジタルブーストは、
アナログでも出来る実力者にしか寄与せず、
デジタルスタートの人は、いつまでたってもアナログスタートでやって来た人に勝てない、
という結論になった。
それはデジタル絵描きでも同じで、
手でデッサン出来る人に、
デジタルからスタートした人には勝てないんだよね。

つまり、デジタルは、
下手くそな人を量産してるだけ、
という皮肉な結果になっている。
posted by おおおかとしひこ at 11:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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