日本では多くの場合、
メインの人に助手がつくシステムでは、
助手のほうが年下で、入ったばかりで、
いずれメインになり、新しい助手が入る、
というシステムになっていることが多い。
でもさ、
実質、助手のほうが優秀なほうが、
仕事は効率がいいんだよな。
「ゴッドハンド輝」というマガジンの医者漫画があって、
主人公輝の助手時代が面白かった。
手術をする医師の使う道具を、
手元のテーブルに並べておくのが助手の仕事だ。
それは適当に並べるのでは効率が悪く、
「使う順番に並べる」のが最もいい。
でもそれには、
手術はどういう段取りで進めて終わらせるか、
という、手術する人のことを全部分かってないと出来ない。
つまり、助手は、メインの人以上の力量がいる。
(主人公の優秀ぶりを示すエピソードではあったけど)
車のドライバーと助手席の関係も同じだ。
運転者がどうするのかを分かって、
ナビゲーターは指示を出す。
ピッチャーとキャッチャーでは、
一見ピッチャーがメインに見えるけど、
リードしてるのはキャッチャーだろう。
つまり、こういう場面での助手は、
出来ない人、入ったばかりの人では、
務まらない。
映像の世界も似たようなものだ。
監督と助監督も同じで、
カメラマンとチーフも同じで、
ミキサーとチーフも同じだったりする。
(現場や人によって違うこともある)
脚本はどうだろ。
一人で書くので助手の仕事はとくにないか。
下調べかな。
でも下調べなんて、
書く本人がやるべきことで、
もし助手が下調べするならば、
作家の一番大事なところ、「観点」が必要なことになってしまう。
助手が雑務であるような、仕事もあるかも知れない。
あるいは表裏一体の、仕事もあるかも知れない。
餅つきはどっちだ。
杵と臼は、対等でないとリズムが合わない。
どっちが力持ちかで、
配分が変わるかも知れない程度で、
杵と臼のどっちがメインとかないかな。
「餅」がメインなら臼がメイン、
「つき」がメインなら杵がメインかも知れないが、
「餅つき」とくっつけるあたりに、
日本語の面白さがあるよね。
何が言いたいかというと、
これは人間関係や、
物語の進行の仕方に、
とても関係しているということ。
メインと思われる人、
助手と思われる人が、
必ずしもメインとサブの仕事をするとは限らない、
むしろ逆もある、ということ。
真のメインどころを主人公にしないと、
意味がないんだよ。
だから、監督を主人公にする物語は、
助監督の大切さを知らない人が書いてるんだなあ、
って、僕なら思ってしまう。
ちなみに助監督の主な仕事は、
スケジューリングと予算管理である。
監督がどれくらいの工程をかけて、
どれくらいの軽重で進めるかを知らないと、
それをシミュレートしてスケジューリング出来ないのだ。
優秀な助監督ならば、
監督が4日かかると踏んだロケ地が、
3日しか撮れないと分かったら、
4日借りれるように手配するものである。
それを「3日で撮ってください」という無能がとても多い。
あるいは、「3日しか借りれないので、
残り1日分はこうやれば別場所で撮れるのでは」と提案するのが、
優秀な助監督である。
このとき、現場を支配しているのは、助監督である。
つまり監督よりも助監督が主人公である。
ゴッドハンド輝も、輝が助手時代のほうが主人公感があった。
助手は、アシスタントや年下や未成年ではないということだ。
(一方、漫画家はどうだろ。
背景やモブを描く助手は、メインだろうか?
杵と臼の関係に似てるかもね。
でもアシスタントで優秀な人だったんだろな、
という人ほど、メインの人物に魅力がなかったりするよね。
難しいところだな)
2017年06月12日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック