実際のところ、
ストーリーテリングは、これがすべてだ。
なにがしたいのか。
どれくらいしたいのか。
それが、話の推進力である。
特になにがしたいのかがない、
のは話が進まない。
なにもしたくない、でも話が進まない。
話というのは、
誰かが何かがしたいことを、追いかける形式である。
ちょっとしたい、したい程度でまあどっちでもいい、
では、話が進みにくい。
どうしてもしたい、しなければならない、
しないと死ぬ、したくてしょうがない、
しないと生きてる気がしない、
ほっといてもしてしまう、
ぐらいでないと、
話は進まない。
なぜなら、
「しなくてもいい言い訳」が、
世の中にはたくさんあるからだ。
ストーリーというものは、
しなくてもいい抵抗に対して、
どうしてもそれを貫く行為のことである。
なにがしたいのか分からない、
というのは、まずこれが不明瞭であることを言う。
どの場面でもいい。
すべての登場人物に、
登場人物「俺は、かなりの程度で、どうしても、
めちゃくちゃ、○○がしたい!」
と言わせてみよう。
それがないのなら、
その話は、なにがしたいのか分からない話である。
もし「○○がしたい!」と言わせてみて、
「いや、わざわざ言わなくても分かってるよ」
と皆が突っ込むのなら、
それは、なにがしたいのかちゃんと分かっている話である。
現実世界では、なにがしたいのか自分で分かっている人は、
ほとんどいない。
数分や数時間単位では小さくあるかもだ。
夜の予定や週末の予定ぐらいはあるかもだ。
仕事では数ヶ月単位であるかも知れない。
しかし、やらない言い訳に負けずに、
「○○がしたい!」と常に、明確に言い、
かつ行動する人はそんなにいない。
逆にいたらキモイ。
精々、アイドルになりたい、その為に努力する、
ダイエットしたいから、運動する、
あいつに復讐するために、コツコツ嫌がらせを組む、
ぐらいがリアルなところだろう。
お話の中のように、
何がしたいのか明確にあり、
ずーっとそれに支配される、ということは、
ほとんどない。
だから、あなたは話を書くのが下手なのかも知れない。
ストーリーとは、
現実にあまり起こらない、
究極の興奮状態なのである。
「どうしても○○がしたい!しなければ死ぬ!」
に取りつかれたまま、最後にそれを成し遂げる
(あるいはバッドエンドになる)
という、異常な興奮状態を、
最初から最後まで追いかけることを、
ストーリーというのである。
もしあなたが、
「どうしても○○がしたい!」をキープし続け、
ついに○○を成し遂げる、
そういう人生を常に送っていない限り、
あなたの日常の惰性が、
すぐにストーリーに影響してしまう。
「その異常な興奮状態、覚めよ」と。
ストーリーを書くという行為は、
その世界を怠惰にする力に逆らって、
異常興奮状態を、作品内で続けることを意味するわけだ。
一種の異常者なのである。
あなたは、ストーリーを書くときに、
その異常性を認識しているだろうか?
というのが、この記事の本題だ。
初心者の頃は、
とにかく思いついた勢いで、
最後まで書いてしまうことがある。
それは異常興奮状態が、最後まで持続したのだね。
しかしその異常興奮状態は、
人為的に作り出したのではなく、
「思いついた!」という天からの授かり物である。
つまり、
天から授からない限り、
あなたは異常興奮状態を維持できない。
霊媒体質というと分かりやすいかも知れない。
ストーリーを書く者は、
人為的に、この異常興奮状態を、取りつかせることが出来る者のことである。
さて、書くか。
(1秒後)どうしても○○したいのお!
と、なれる人のことを言う。
つまり、傍目からみたら異常者だね。
この能力は、
訓練によってある程度積むことが可能である。
平静の生活があまりにも詰まらない人は、
創作の世界だけが楽しくて異常興奮状態になれる、
という人がとても多い。
それは現実逃避がわりに、ストーリーテリングを使っているわけだ。
「リア充は脚本を書かない」と僕はよく言うが、
現実で恵まれない、インキャが、
創作という膨大に時間を必要とする行為をやりがちだ、
ということを言っている。
で、現実世界の体験の乏しいインキャだから、
現実世界での成功をうまく描けずに、
簡単にメアリースーに取りつかれ、
「ご都合主義の最強(愛され)キャラ」という、
ストーリーの中では最も詰まらない主人公を活躍させてしまう。
これは、ストーリーを楽しむのが作者の目的ではなく、
現実逃避が作者の目的だからである。
同様に、ラノベにおけるオレツエーは、
現実逃避するインキャの渦巻く世界であると断言する。
多くの敵を作る発言だが、事実だ。
僕は、物語は世界に立ち向かう知恵や勇気を与えるべきだと思っていて、
現実逃避だけでおしまいにするべきでないと考えている。
オレツエーは、インキャが現実逃避(単なるストレス解消)
をしておしまいでしかなく、
厳しい現実世界に立ち向かう知恵や勇気を与えてくれない。
だから、物語として不完全だと考えている。
本物の物語は、主人公の変化を見て、
受け手も変化するものを言う。
ストレス解消で終わりではなく、
その先の何かを与え、分かち合えるのが豊かな物語だ。
オレツエーは、壁に向かって皿を割って片付けて、
振り返って現実世界の一員に戻る行為でしかない。
本物の物語は、現実世界に対して○○がしたい、と行動を起こさせるほどの、
影響を与えるものを言う。
話がそれた。
つまり、それだけ、
世界に○○がしたい!ということは、
稀なることである、ということである。
さて。
では、作中で「どうしても○○がしたい!」
と言い続ける登場人物は、現実世界では異常興奮状態の異常者か?
イエスだ。
だからこそ、「どうしてこの人は○○したいのか」
という説明がいる。
その事情が分かれば、
「なるほど、それは○○がしたいというのもよくわかる」
となるからだ。
むしろ、「その事情ならしょうがない、早くそれを叶えて欲しい」
と皆が思い、
「是非ともそれを叶えて欲しいのに、
世間はなんてうまくいかないように出来てるんだ、
でもそれに挫けずに、頑張って叶えて欲しい」
と皆が思い、応援する状態こそ、
「そのストーリーに夢中になっている」
という状態のことである。
ストーリーテラーとは、
この状態をキープし続けることが、
出来てる人のことを言う。
受け手の信頼は、簡単に削がれていく。
それは、受け手も厳しい現実世界に生きているからで、
「そんな簡単にうまいこといかない」
「そこまではいけるけど、その先には○○という問題がある」
「こういうときに成功する術を、みんな探したけど見つかっていない」
を、沢山経験しているからだ。
これに反して、登場人物が次々に成功すると、
「リアリティーがない」「ご都合主義」となり、
「そんなバカな話あるわけない(そんなに楽なら俺はここで苦労してない)」
になってゆく。
登場人物がラッキーでその場を切り抜けても詰まらない。
受け手は、
「現実世界でもあり得る、このピンチの脱出の仕方を知りたい」
と、現実世界に即して考えているのに、
「この人はラッキーだから助かったのです」
となると、興醒めになる。
「どうしても○○がしたい!」人が、
どうやって自力で(あるいは他人を巻き込んで)成功するかが見たいのだ。
それは、自分の現実世界でもあり得る、ヒントにしたいからだ。
だから、現実世界で成功体験のないインキャは、
脚本を書けないのである。
書けないというのは言い過ぎだ。
殺人をしたことない人が殺人を書けない、
ぐらい乱暴な議論をしている。
「たとえ現実世界で成功体験がなくとも、
まるで現実世界での成功体験のように、
リアリティー溢れて皆のためになる話が書ける」
のなら、
現実世界での成功体験有り無しや、インキャ有り無しは、
関係はない。
だから、あなたの人生や性格には、脚本の出来は関係はない。
(確率の高い因果関係は、ある。
あなたがその確率から逃れればいいだけのこと)
皆が応援したがる、
その成功から皆が現実世界での生き方の参考になる、
登場人物の異常興奮状態、「○○がしたい!」を書き続けること。
それが成功したり失敗したりする起伏をつくり、
皆がそれに一喜一憂するハラハラした展開をつくること。
そしてそれがカタルシスを持って終わり、
この登場人物の軌跡に、意味が見いだせること。
かなり難易度高いよね。
でもそれが、話を書くということである。
いきなり全部が出来る人はいない。
だからみんなコツコツ書いては、
出来たとか出来なかったとか、やってるのだ。
なにがしたいのか分からない。
そう言われるのは簡単だが、
その逆は、とてつもなく難しい。
でも出来ないと、
話を作ったことにならないよ。
2017年06月13日
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