2017年06月13日

なにがしたいのか

実際のところ、
ストーリーテリングは、これがすべてだ。

なにがしたいのか。
どれくらいしたいのか。

それが、話の推進力である。


特になにがしたいのかがない、
のは話が進まない。
なにもしたくない、でも話が進まない。

話というのは、
誰かが何かがしたいことを、追いかける形式である。

ちょっとしたい、したい程度でまあどっちでもいい、
では、話が進みにくい。

どうしてもしたい、しなければならない、
しないと死ぬ、したくてしょうがない、
しないと生きてる気がしない、
ほっといてもしてしまう、
ぐらいでないと、
話は進まない。

なぜなら、
「しなくてもいい言い訳」が、
世の中にはたくさんあるからだ。

ストーリーというものは、
しなくてもいい抵抗に対して、
どうしてもそれを貫く行為のことである。


なにがしたいのか分からない、
というのは、まずこれが不明瞭であることを言う。

どの場面でもいい。
すべての登場人物に、
登場人物「俺は、かなりの程度で、どうしても、
めちゃくちゃ、○○がしたい!」
と言わせてみよう。

それがないのなら、
その話は、なにがしたいのか分からない話である。

もし「○○がしたい!」と言わせてみて、
「いや、わざわざ言わなくても分かってるよ」
と皆が突っ込むのなら、
それは、なにがしたいのかちゃんと分かっている話である。


現実世界では、なにがしたいのか自分で分かっている人は、
ほとんどいない。
数分や数時間単位では小さくあるかもだ。
夜の予定や週末の予定ぐらいはあるかもだ。
仕事では数ヶ月単位であるかも知れない。
しかし、やらない言い訳に負けずに、
「○○がしたい!」と常に、明確に言い、
かつ行動する人はそんなにいない。
逆にいたらキモイ。

精々、アイドルになりたい、その為に努力する、
ダイエットしたいから、運動する、
あいつに復讐するために、コツコツ嫌がらせを組む、
ぐらいがリアルなところだろう。

お話の中のように、
何がしたいのか明確にあり、
ずーっとそれに支配される、ということは、
ほとんどない。


だから、あなたは話を書くのが下手なのかも知れない。



ストーリーとは、
現実にあまり起こらない、
究極の興奮状態なのである。

「どうしても○○がしたい!しなければ死ぬ!」
に取りつかれたまま、最後にそれを成し遂げる
(あるいはバッドエンドになる)
という、異常な興奮状態を、
最初から最後まで追いかけることを、
ストーリーというのである。

もしあなたが、
「どうしても○○がしたい!」をキープし続け、
ついに○○を成し遂げる、
そういう人生を常に送っていない限り、
あなたの日常の惰性が、
すぐにストーリーに影響してしまう。

「その異常な興奮状態、覚めよ」と。

ストーリーを書くという行為は、
その世界を怠惰にする力に逆らって、
異常興奮状態を、作品内で続けることを意味するわけだ。

一種の異常者なのである。


あなたは、ストーリーを書くときに、
その異常性を認識しているだろうか?
というのが、この記事の本題だ。


初心者の頃は、
とにかく思いついた勢いで、
最後まで書いてしまうことがある。
それは異常興奮状態が、最後まで持続したのだね。

しかしその異常興奮状態は、
人為的に作り出したのではなく、
「思いついた!」という天からの授かり物である。
つまり、
天から授からない限り、
あなたは異常興奮状態を維持できない。
霊媒体質というと分かりやすいかも知れない。


ストーリーを書く者は、
人為的に、この異常興奮状態を、取りつかせることが出来る者のことである。

さて、書くか。
(1秒後)どうしても○○したいのお!

と、なれる人のことを言う。
つまり、傍目からみたら異常者だね。


この能力は、
訓練によってある程度積むことが可能である。

平静の生活があまりにも詰まらない人は、
創作の世界だけが楽しくて異常興奮状態になれる、
という人がとても多い。
それは現実逃避がわりに、ストーリーテリングを使っているわけだ。

「リア充は脚本を書かない」と僕はよく言うが、
現実で恵まれない、インキャが、
創作という膨大に時間を必要とする行為をやりがちだ、
ということを言っている。

で、現実世界の体験の乏しいインキャだから、
現実世界での成功をうまく描けずに、
簡単にメアリースーに取りつかれ、
「ご都合主義の最強(愛され)キャラ」という、
ストーリーの中では最も詰まらない主人公を活躍させてしまう。
これは、ストーリーを楽しむのが作者の目的ではなく、
現実逃避が作者の目的だからである。

同様に、ラノベにおけるオレツエーは、
現実逃避するインキャの渦巻く世界であると断言する。
多くの敵を作る発言だが、事実だ。

僕は、物語は世界に立ち向かう知恵や勇気を与えるべきだと思っていて、
現実逃避だけでおしまいにするべきでないと考えている。

オレツエーは、インキャが現実逃避(単なるストレス解消)
をしておしまいでしかなく、
厳しい現実世界に立ち向かう知恵や勇気を与えてくれない。
だから、物語として不完全だと考えている。

本物の物語は、主人公の変化を見て、
受け手も変化するものを言う。
ストレス解消で終わりではなく、
その先の何かを与え、分かち合えるのが豊かな物語だ。

オレツエーは、壁に向かって皿を割って片付けて、
振り返って現実世界の一員に戻る行為でしかない。

本物の物語は、現実世界に対して○○がしたい、と行動を起こさせるほどの、
影響を与えるものを言う。


話がそれた。

つまり、それだけ、
世界に○○がしたい!ということは、
稀なることである、ということである。



さて。

では、作中で「どうしても○○がしたい!」
と言い続ける登場人物は、現実世界では異常興奮状態の異常者か?
イエスだ。

だからこそ、「どうしてこの人は○○したいのか」
という説明がいる。
その事情が分かれば、
「なるほど、それは○○がしたいというのもよくわかる」
となるからだ。
むしろ、「その事情ならしょうがない、早くそれを叶えて欲しい」
と皆が思い、
「是非ともそれを叶えて欲しいのに、
世間はなんてうまくいかないように出来てるんだ、
でもそれに挫けずに、頑張って叶えて欲しい」
と皆が思い、応援する状態こそ、
「そのストーリーに夢中になっている」
という状態のことである。

ストーリーテラーとは、
この状態をキープし続けることが、
出来てる人のことを言う。


受け手の信頼は、簡単に削がれていく。
それは、受け手も厳しい現実世界に生きているからで、
「そんな簡単にうまいこといかない」
「そこまではいけるけど、その先には○○という問題がある」
「こういうときに成功する術を、みんな探したけど見つかっていない」
を、沢山経験しているからだ。
これに反して、登場人物が次々に成功すると、
「リアリティーがない」「ご都合主義」となり、
「そんなバカな話あるわけない(そんなに楽なら俺はここで苦労してない)」
になってゆく。

登場人物がラッキーでその場を切り抜けても詰まらない。
受け手は、
「現実世界でもあり得る、このピンチの脱出の仕方を知りたい」
と、現実世界に即して考えているのに、
「この人はラッキーだから助かったのです」
となると、興醒めになる。
「どうしても○○がしたい!」人が、
どうやって自力で(あるいは他人を巻き込んで)成功するかが見たいのだ。
それは、自分の現実世界でもあり得る、ヒントにしたいからだ。

だから、現実世界で成功体験のないインキャは、
脚本を書けないのである。
書けないというのは言い過ぎだ。
殺人をしたことない人が殺人を書けない、
ぐらい乱暴な議論をしている。

「たとえ現実世界で成功体験がなくとも、
まるで現実世界での成功体験のように、
リアリティー溢れて皆のためになる話が書ける」
のなら、
現実世界での成功体験有り無しや、インキャ有り無しは、
関係はない。
だから、あなたの人生や性格には、脚本の出来は関係はない。
(確率の高い因果関係は、ある。
あなたがその確率から逃れればいいだけのこと)



皆が応援したがる、
その成功から皆が現実世界での生き方の参考になる、
登場人物の異常興奮状態、「○○がしたい!」を書き続けること。
それが成功したり失敗したりする起伏をつくり、
皆がそれに一喜一憂するハラハラした展開をつくること。
そしてそれがカタルシスを持って終わり、
この登場人物の軌跡に、意味が見いだせること。


かなり難易度高いよね。

でもそれが、話を書くということである。



いきなり全部が出来る人はいない。
だからみんなコツコツ書いては、
出来たとか出来なかったとか、やってるのだ。


なにがしたいのか分からない。

そう言われるのは簡単だが、
その逆は、とてつもなく難しい。


でも出来ないと、
話を作ったことにならないよ。
posted by おおおかとしひこ at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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