なぜだか昔に書いたモチーフとテーマの違いの記事が、
昨日異常にはねた。
SeeSaaブログの、リンク元をたどる機能が貧弱化したので、
何故かは分からないままである。
ところで、「テーマとモチーフ」は、
「目的と手段」と言い換えると、
私たちの感覚に近くなると思った。
たとえば、
ソーセージを使ってちんこを表現したとしよう。
ちんこがモチーフである。
テーマは子孫繁栄としようか。
つまり、
子孫繁栄を、
ちんこで表現したのである。
目的は子孫繁栄で、手段はちんこだ。
これは全国各地にある男根まつりに見られる、
伝統的な芸術である。
(ソーセージじゃなくて、石か柱のことが多い)
ちなみにこの場合の、
石や木やソーセージはマテリアル(材料)という。
ソーセージという材料の、
ちんこという手段で、
子孫繁栄の目的を表現している。
逆に、
子孫繁栄の目的を果たすため、
ちんこという手段を使い、
それはソーセージマテリアルを用いている。
ソーセージという具体を用いている、
なんてことを僕らの世界ではよくいう。
ちんこでもソーセージでも「具体的手段」に
とらえられがちなので、このふたつはよく混同される。
ソーセージが手段で、ちんこが目的である、というふうに。
それは、子孫繁栄の目的が、
どこにも書いてないことからくる悲劇ではないだろうか。
「ちんこが子孫繁栄の象徴になる」
と読解できる人が少ない場合、
ちんこはいやらしいものの象徴にもなる。
だから、男根はいやらしいから、隠せ、
というバカな抗議があるのである。
このとき、
「ちんこが子孫繁栄の象徴と読み取れるだけの読解力がない、あなたが悪い」
と反撃することも可能で、
それは一定の賛同者を得られるはずだが、
一方的なクレームの場合、
クレームを受けた側が表現をとりさげることすらある。
読解できないクレーマーのせいで、
表現がひとつ世から消える悲劇である。
その根底にあるのは、
「書いてないものは存在しない」と解釈する、
知性のなさであるように思う。
表現とは、
「目的と手段を違うものでする」ことである。
だから目的は明示されない。
明示されるのは手段だけだ。
目的を明示するのは下手なやつのやりかたであり、
暗示によるものが表現であるからである。
なぜ明示でなく暗示なのか。
それは、
それでしか表現しえない、
直接表現では得られない、
豊さを得るためだ。
Aと表現するより、not Aと表現したほうが、
意味する空間は大きくなる。
だから、直接表現法のほうが表現範囲が狭い。
だから、上手な人は、not A, but nealy B
と、B近辺に暗示を寄せてくるのである。
これが、面白いとか、新しいとかを競うのが、文化である。
テーマとモチーフとマテリアルを混同する人は、
要するに文化の教養がない人だ。
文化といっても金持ちの教養ばかりとは限らない。
ことばや人間の行動も文化の一部であり、
現実は文化でもある。
文化はそこかしこに転がっている。
つまり、「テーマを明示しないモチーフという表現」
すべてにおいてに、文化はある。
京都人の有名な、
「お茶漬けでも食べていきなはれ」
は、
ことばや態度がマテリアル、
お茶漬けがモチーフ、
「帰れ」がテーマである。
これが過度に文化的であるとは僕は思わない。
意図を読み取れば、その読み取りは可能であるからだ。
そもそも人間は、言葉を獲得する前から、
相手の意図をわかる能力があったはずだ。
「言葉に明示されていないことしか、読み取れない」のは、
やっぱりバカだと、最近思う。
それは、ロボットや人工知能レベルやないか。
ということで、
表現は明示しないことで、
奥ゆかしさや、意味の豊かさや、言外の意味などの、
有限しかないものから無限の空間を、
手に入れるのである。
ちんこは有限だけど、子孫繁栄は無限である。
ソーセージでちんこを表現しよう。
それは無限である。
この話を聞いてない人には、性的嫌がらせである。
これが、ストーリーの力。
それを聞く前と聞いた後で、意味が変化する。
2017年06月13日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック