2017年06月13日

目的と手段

なぜだか昔に書いたモチーフとテーマの違いの記事が、
昨日異常にはねた。
SeeSaaブログの、リンク元をたどる機能が貧弱化したので、
何故かは分からないままである。

ところで、「テーマとモチーフ」は、
「目的と手段」と言い換えると、
私たちの感覚に近くなると思った。



たとえば、
ソーセージを使ってちんこを表現したとしよう。

ちんこがモチーフである。
テーマは子孫繁栄としようか。

つまり、
子孫繁栄を、
ちんこで表現したのである。
目的は子孫繁栄で、手段はちんこだ。

これは全国各地にある男根まつりに見られる、
伝統的な芸術である。
(ソーセージじゃなくて、石か柱のことが多い)


ちなみにこの場合の、
石や木やソーセージはマテリアル(材料)という。

ソーセージという材料の、
ちんこという手段で、
子孫繁栄の目的を表現している。

逆に、
子孫繁栄の目的を果たすため、
ちんこという手段を使い、
それはソーセージマテリアルを用いている。


ソーセージという具体を用いている、
なんてことを僕らの世界ではよくいう。

ちんこでもソーセージでも「具体的手段」に
とらえられがちなので、このふたつはよく混同される。

ソーセージが手段で、ちんこが目的である、というふうに。


それは、子孫繁栄の目的が、
どこにも書いてないことからくる悲劇ではないだろうか。


「ちんこが子孫繁栄の象徴になる」
と読解できる人が少ない場合、
ちんこはいやらしいものの象徴にもなる。

だから、男根はいやらしいから、隠せ、
というバカな抗議があるのである。

このとき、
「ちんこが子孫繁栄の象徴と読み取れるだけの読解力がない、あなたが悪い」
と反撃することも可能で、
それは一定の賛同者を得られるはずだが、
一方的なクレームの場合、
クレームを受けた側が表現をとりさげることすらある。

読解できないクレーマーのせいで、
表現がひとつ世から消える悲劇である。

その根底にあるのは、
「書いてないものは存在しない」と解釈する、
知性のなさであるように思う。


表現とは、
「目的と手段を違うものでする」ことである。
だから目的は明示されない。
明示されるのは手段だけだ。

目的を明示するのは下手なやつのやりかたであり、
暗示によるものが表現であるからである。

なぜ明示でなく暗示なのか。

それは、
それでしか表現しえない、
直接表現では得られない、
豊さを得るためだ。

Aと表現するより、not Aと表現したほうが、
意味する空間は大きくなる。
だから、直接表現法のほうが表現範囲が狭い。

だから、上手な人は、not A, but nealy B
と、B近辺に暗示を寄せてくるのである。

これが、面白いとか、新しいとかを競うのが、文化である。


テーマとモチーフとマテリアルを混同する人は、
要するに文化の教養がない人だ。

文化といっても金持ちの教養ばかりとは限らない。
ことばや人間の行動も文化の一部であり、
現実は文化でもある。
文化はそこかしこに転がっている。

つまり、「テーマを明示しないモチーフという表現」
すべてにおいてに、文化はある。


京都人の有名な、
「お茶漬けでも食べていきなはれ」
は、
ことばや態度がマテリアル、
お茶漬けがモチーフ、
「帰れ」がテーマである。

これが過度に文化的であるとは僕は思わない。
意図を読み取れば、その読み取りは可能であるからだ。

そもそも人間は、言葉を獲得する前から、
相手の意図をわかる能力があったはずだ。
「言葉に明示されていないことしか、読み取れない」のは、
やっぱりバカだと、最近思う。
それは、ロボットや人工知能レベルやないか。



ということで、
表現は明示しないことで、
奥ゆかしさや、意味の豊かさや、言外の意味などの、
有限しかないものから無限の空間を、
手に入れるのである。

ちんこは有限だけど、子孫繁栄は無限である。


ソーセージでちんこを表現しよう。
それは無限である。

この話を聞いてない人には、性的嫌がらせである。



これが、ストーリーの力。
それを聞く前と聞いた後で、意味が変化する。
posted by おおおかとしひこ at 15:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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