自分の説明力をつけるために、
こういうエクササイズはどうだろう。
自分のシナリオのワンシーンを、
台詞なしに書き換えられるか、
というもの。
説明台詞の乱用は、下手の証拠である。
百聞は一見にしかずであるから、
聞くよりも見て理解するほうが、
百倍いいはずだ。
にも関わらず、無駄に説明台詞を乱発するのは、
見て理解するように絵を組む力がなく、
台詞に頼ってしまうからである。
脚本添削スペシャル2017で示したように、
ある一本のシナリオを、
全く台詞なしのシナリオに組み換えることは可能だ。
(「どぶ川跳び」参照)
映画は無声映画からはじまった。
そして人間も、言語を持つ以前からいる。
だから、
言語以外のコミュニケーション、
言語以外の相互理解、
言語以外の誤解、
言語以外のコンフリクト、
言語以外の喧嘩や決裂、
言語以外の行動、
言語以外の結果、
言語以外の類推、
言語以外の想像、
言語以外の社会の空気、
などがある。
映画は小説ではない。
言葉なしに伝えられること、
言葉よりも速くダイレクトに伝わること、
言葉になる以前のこと、
言葉よりも直接響くこと、
言葉以上に響くこと、
などは、言葉を使わないほうがよくて、
絵を使うだけのサイレント表現のほうが、力がある。
力があるというのは、より原始的であるということ。
我々の脳幹に響き、速く、誤解がないということ。
映画が小説よりも勝るのは、この部分だ。
(だから小説の映画化は、原理的に意味がない。
小説でグッと来るところは言葉の部分だが、
映画でグッと来るところは、言葉のない所である。
つまり、逆である)
逆に、
言葉のない、原始的な強い表現を使えない限り、
映画は小説に勝てない。
昨今の日本のドラマや映画が詰まらないのは、
この絵の力がないからである。
小説家や漫画家志望の人が脚本を片手間にやるから、
映画をきちんと学んでいない。
映画の原点は、台詞のない劇だった。
それで、力強く、骨太で、
笑ったり泣いたりほろりとしたりする作品が、
沢山作られていた。
カットバックやモンタージュは、
戦前くらいに出来ている。
そこから基本的に映像文法は変わっていないし、
新しい映像文法はこれを越えていない。
つまり結局は、サイレント映画を学べ、
ということにつきるわけである。
絵で語るということはどういうことだろう。
ここでも、スチルとムービーは違う。
「スチルの絵」ではなく、「ムービーの絵」で語ることが、
ムービーの文法である。
たとえば、
ある紙袋の中に爆弾を入れて、
にっくき上司に渡したとしよう。
上司がフレームアウトして爆風が飛んできたら、
上司は死んだ、という意味になる。
(それは別のが爆発したものであり、
爆弾は爆発しなかった、
という種明かしをあとですることもできる。
また、男がガッツポーズをとれば、それは死亡確定である)
これはスチルでは不可能なことである。
紙袋の中に爆弾が入っていることを、
一枚の写真で(合成とか字幕とか使わずに)
示すことはできない。
「紙袋に爆弾を入れる」という「動作」だけが、
その理解を可能にする。
また、画面外の爆発も、スチルでは不可能な表現だ。
「爆弾入りの紙袋を、中身はそれと知らないまま、
その辺に行った人」をスチルでは表現できないし、
「その人がどこかで爆発した」も、スチルでは表現できない。
スチルは時間方向を持たない、
とよく言うけど、
時間軸とは、
このような、
知ってること知らないことや、動作や、変化のことをいう。
海のカットで、「波が動いてる」から動画なのではない。
それはスチルの変形でしかない。
動くスチルのレベルだ。
「ムービーの絵」とは、
人が何かをすること(この例では爆弾入りの紙袋を渡す)、
その結果何か起こること(上司はなにも知らず受け取ってどこかへ)、
その結果何かが変化すること(上司爆発)、
を含むことを言う。
これの、
どれかの要素をワンカットで描いてもいいし、
二つの要素をワンカットで描いてもいいし、
三つの要素をワンカットで描いてもいい。
さらに、爆弾のアップや、
上司を殺そうとする殺意の顔のアップや、
それを上司に悟られまいと笑顔に戻るアップや、
間抜けにも何も気づいてない上司のアップがあるかも知れない。
あるいは、逆に街のヒキに、小さく爆炎が上がるカットがあるかも知れない。
そのカット割については、監督の裁量である。
(実際には、役者の芝居力や予算が絡み、
ストーリーを表現するベストのカット割が出来ていないのが、
日本映画の現状であるが、ここでは深入りしない)
だから、脚本家であるあなたは、
「このストーリーは台詞がなくても絵で語れる」
ことが判断でき、
かつ、
「どのようなカット割になったとしても、
ストーリーそのものが面白いのだから、
カット割に左右されない」
ストーリーが書ければなんの問題もない。
「絵で語る」というと、
素人は「美しい絵」や、「目力や表情」など、
ワンカット単位でしかものごとを考えない。
それは映画を観たことがない人だ。
観たことがあっても、本当には観てない人だ。
映画は時間軸である。
あるカットの次に別のカットがあり、また別のカットに繋がる。
それらが全部美しい絵である必要も、
全てが表情がわかる必要もない。
全ては組み合わせの流れである。
これを、専門用語でモンタージュというだけのことだ。
さて。
モンタージュの実例。
「憎い上司」は、どうやって伝える?
「憎むような表情で伝える」と答えるならば、
あなたはモンタージュを全然分かっていない。
「にこやかに上司に挨拶して、紙袋を渡す」で、
彼が上司を憎んでいることはわかる。
なぜか?
「その前に、爆弾を紙袋に入れている」からだ。
「紙袋を渡すときは、爽やかににこやかでいる」ことが、
殺意を隠していることの表現になるわけだ。
芝居を理解しない素人は、
ここで「上司を殺そうとする殺意の顔のアップ」が欲しいと感じる。
しかしそんなものはいらない。
紙袋に爆弾を入れる段階で殺意は表現できている。
あとは上司にばれないように「笑顔を作ること」が、
殺意なのである。
つまり、流れによる絵では、
「その絵の(みかけの)意味」が「その絵の(ほんとうの)意味」
と一致しない。
「前に来たもので、その絵の意味が変わる」のである。
(これがモンタージュ理論の核心である)
これさえ自在に使えるようになれば、
「流れの絵」で語ることが出来るようになる。
逆に、これが出来ないと、映画の脚本を書いているとは言えない。
さて。
あなたの書いたシーンを、
このように書き換えることは出来るだろうか?
台詞劇を、サイレントに出来るだろうか?
一行ずつ、一対一の対応を考えるのは素人だ。
そのシーンで誰と誰が何をして、
どうなるかさえ整理できれば、
頭から白紙にサイレントで書いていくのがよい。
どうせ一対一対応は無理だから、
このシーンで何をなすべきかが、達成されればオーケーだ。
コツは、
板付き(その場にいるところから始める)、
フレームイン(そこに来る)、
フレームアウト(そこから去る)を使い分けることと、
動作を使うことである。
紙袋の爆弾の例では、
紙袋に爆弾を入れる、
(爆弾入りの)紙袋を渡す、
が動作であり、
これだけで、
この男は上司を爆破しようとしている文脈が伝わる。
この動作を、専門用語でアクションという。
アクションというと、ついついアクション映画のような、
カーチェイスや闘いや銃撃戦や爆発を想像してしまうけど、
それはアクションの一部で、派手なアクションなだけである。
アクションとは、すべての動詞だと思うと分かりやすい。
立つ、座る、見る、言う、置く、取る、渡す、
などもアクションである。
ただ地味なだけだ。
アクション映画とは、派手なアクション多めの映画のことであり、
映画とは、地味なアクションのことである。
たとえば、座ることが離婚をやめて、
これから家族としてやっていこうという決意を表現するものであるとする。
これは、家族の再生ものにおいて、
クライマックスの最も大事なアクションになる可能性がある。
地球にやってきた隕石を爆破するアクションに匹敵するほどの、
映画のもっとも大事な瞬間になるレベルに、ストーリーを組むことができるだろう。
つまり、アクションそのものが地味でも、
その示す意味がストーリーの最も大事な決定を背負うようにすれば、
それは、アクションの意味以上に、意味のある絵になるのである。
(モンタージュ)
よく僕は、じゃんけんですらクライマックスになりえる、という。
それはこういう意味である。
「地球滅亡をかけて宇宙人代表とじゃんけんをする」
というストーリーならば、
そのじゃんけんの成否が地球の命運を決めてしまう。
それは、何億もかけて表現するアクション映画の宇宙戦争アクションと、
同等に盛り上がるはずだ。
絵によって語るとは、
すなわち、
モンタージュによって語ることである。
その絵以上の意味を、文脈によって与えることである。
「紙袋を笑顔で渡す」という、
日常では何でもない行為が、
殺意を表現することになるわけだ。
これが映画のすごみである。
サイレントで書こう。
台詞なんて書いてるやつは、素人だ。
2017年06月14日
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