2017年06月16日

ついでに、アウトラインプロセッサも間違っている

シナリオ工学は間違っている。
この説が正しいとすれば
(そして僕はそうだと確信しているが)、
アウトラインプロセッサも間違っている。


今はすっかり僕のメインエディタとなった、
TATEditorであるが、
「アウトラインプロセッサだ」という紹介に、
最初は眉唾であった。
僕はアウトラインプロセッサが、
昔から好きではない。

今はTATEditorの、アウトラインプロセッサ機能は一切使わず、
ただのテキストエディタとしてしか使っていない。
むしろどうやってアウトラインプロセッサ機能を使うのか分からなくなった。

どうしてアウトラインプロセッサがインチキかというと、
「全体を部分の集合として記述できる」という、
シナリオ工学的な考えと同じだからだと思うのだ。


アウトラインプロセッサを知らないための方に説明しておくと、
全体を章に分け、章を節に分け、節をさらに細かい集合にわけたとき、
これをファイルシステムのように管理したり、
ウィンドウズのファイルシステムのように、
一覧しながら入れ替えや入れ子構造を編集できたり、
不可視や可視に出来たり、
というシステムのことをいう。
(ラベルをテキスト中のブロック頭に貼ることで大概成立させる)

一見とても便利で、
「全体はパーツの集合からなる」というシナリオ工学的な考えからは、
ベストのツールであるような錯覚がある。

しかし、それはあくまでシナリオ工学が正しければ、
という前提だ。



僕は昔から、
「新書などの目次を読んで大要を掴む」
というのを、バカなやり方だと考えている。

書き手としては、目次も作品であるから、
目次でネタバレしないように作るからである。

「全体の構成が分かるように目次を読む」のならば、
「全体の構成がばれないように目次を作る」のが、
創作者としての本能だ。

ところが、新書や論文は、物語ではないということに最近気づいた。
ネタバレ前提なのだ。
だから最初にアブストラクトやサマリーがあり、
結論を先に述べてから、
本論を展開する。

物語はそうではない。
テーマを先に言ってしまったら、
「言ってないものの中から読解する」という、
物語最大の楽しみを奪う。
だから冒頭にテーマを言うのは、
たいてい引っかけであり、
どんでん返す為にある。
いずれにせよ、冒頭にアブストラクトやサマリーは来ない。
来るのは誘引であり、結論ではない。

で、新書や論文は、物語ではないから、
目次に構成を示し、
最初に結論を言う。

構成通りに論は進めるべきだし、
どんでん返しなんかない。
むしろ起伏や読者の裏をかくことは、
構成に対する裏切りですらある。
(物語は、裏切りを楽しむものだ)

だから、
新書などの目次を先に読んで概要を掴むと言うのは、
それが物語でないなら、
方法論として正しい。


この方法論だと、アウトラインプロセッサは機能する。
あらすじは構成そのものだし、
章タイトルはそのパートのサマリーだ。
サマリーから書き、章タイトルのサマリーを書き、
節タイトルのサマリーを書き、
つまりは構成が出来れば、
その論は出来たようなものである。
あとはコツコツパーツを作り上げ、
接続すればいいからである。


物語はこうではない。

焦点で引っ張るのであり、
論を展開するのではない。
事件が起こるのであり、
何か論の前提があるのではない。
ターニングポイントで焦点を乗り換えるのであり、
これは流れの裏切りであり、
論にあったら支離滅裂や破綻ポイントである。
省略法を用い、むしろその省略を楽しむ。

その設計には、アウトラインプロセッサは向いてない。


シナリオ工学の否定の、最も根拠となるのは、
モンタージュ効果を無視したことだった。

前に来るもので、あとに来る意味が変わる。
これは、アウトラインプロセッサでは把握しきれないことで、
僕はこれが物語の本質ではないかと考えている。

部分の静的結合まではアウトラインプロセッサは得意だ。
しかし物語とは、部分の動的結合がキモである。

三段論法で、アウトラインプロセッサは向いてない。



勿論、それをわかった上で、
アウトラインプロセッサを何かの整理に使うというのなら、
それは問題ないだろう。
一番大事な、「流れ」は、視覚化されていないし、
自分のオペレーションがその流れを絶ち切っても気づかない、
ということを自覚していれば、
の話であるけど。


様々な人が、「小説を書くツール」などと称して、
章の整理や入れ替え用途にアウトラインプロセッサを勧めている。
でもそれは有料品を売る為の売り文句に過ぎない。
ずぶの素人がそれに騙されて、
本当に必要な能力を伸ばす機会を失うという意味で、
そのツールは「無知な若い小説家の芽を摘む」道具であると、
僕は断言しておこう。
(僕はそのようなツールにあまり詳しくないのだが、
ArtOfWordsというものを見たときにこれを強く感じた)

無知な部分を手探りで探していくことこそ、
本当の成長であるというのに、
それはゲタを履いてるだけだ。
ゲタなしで行ける能力を、一から鍛えるべきである。

道具の力を、自分の力と勘違いしてんじゃねえぞ。
(「雷鳴のザジ」車田正美。この時の道具は車だったかな)

あなたはあなたで創作者であり、
道具の力など借りる必要はない。
ペンも紙も、なんだったらいらない。
口承文学か、その場で演じてみればいい。
ストーリーというのは、それが本質である。



反論したい方はどうぞ。

アウトラインプロセッサは、
物語に対してこう使うと、
これらの問題を全てクリア出来るとか、
こういう新しい使い方がある、
という工夫の話も歓迎です。
posted by おおおかとしひこ at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック