理論と実戦は違う。
直感では分かるけど、話がややこしくなってくると、
この判断が曇ってくる。
何故ストーリーアナリストの言う通りに直しても、
脚本は面白くならないのか?という問いは、
何故空手の型を習っても組手が強くならないのか?や、
何故ナンパ塾に通ってもモテモテにならないのか?や、
何故経済学者は大儲けしてないのか?
という問いと同じではないだろうか。
この問いに答えるには、
さまざまな可能性がある。
1. 理論が間違っている。
2. 理論はあっていても、実戦の仕方が間違っている。
3. 理論もあっていて、実戦もあっているが、所詮そこまでのスペック。
4. 理論はおいといて、実戦がたまたまうまくいっただけ。
5. この実戦では理論が適用できるが、別の実戦では出来ない。
6. 理論提唱者しか使えない、使用者限定理論であった
7. 理論の出来た時代と実戦の時代が違いすぎる
科学者は、理論と実戦の開きがないきれいな範囲を扱う。
しかし、ナンパ塾やストーリーアナリストや、
経済学者や、空手家や企業コンサルは、
理論と実戦の間が、もっと曖昧な泥臭い範囲を扱う。
科学者は、毎回同じ結果になるものを扱うが、
彼らは、この一回切りで結果を出さなければならない。
たとえば空手の型に、
相手の突きを外に払い、突き返す技がある。
この技が使える距離や場面においては、
この技は使える型である。
しかし相手が蹴りで来た場合、
突きではなくフックだった場合、
心が準備してなかった場合、
フェイントだった場合、
敵が一人でなく三人だった場合
(攻撃は一回とは限らない)には、
この技は使えない。
「型は実戦に使えない」とは、
素人がよく言うが、
「その技の範囲内ではその技が最高に効率がよく、
他の範囲ではその型が使えないだけで、
そのときはまた別の型を使えばよい」だけであり、
その技の練度が低いというだけのことだ。
話をストーリーアナリストに戻してみる。
その人が「主人公に魅力がない」と分析したとしよう。
アナリストはプレイヤーではないから、
プレイヤーすなわち脚本家が、
「主人公の魅力を足してきました!」
となったとする。
しかし、
それはアナリストの理論通りの魅力とは限らないし、
脚本家の独りよがりで、ちっとも魅力的じゃないかも知れないし、
そもそもアナリストの理論が間違っている可能性もある。
脚本の読めないプロデューサーが判断する事項は、
「アナリストの言う通り脚本家が直して、
良くなった」という、形式的事実のみだ。
そして人間というものは、
それに大金を払った場合、
自分の判断の誤りを認めようとしない。
全部が合うときしか成功しないから、
失敗の原因は、複数あり得る。
(成功の研究はあまり実りがないが、
失敗の研究は実りをもたらすとよく言う)
理論通りに何故実戦はいかないのだろう。
理論と実戦が違うからだ、と言うのは簡単だ。
どう違うのか、
今は理論的な話か、
実戦的な話かを、都度注意深く考えるべきである。
そもそも理論と言うのは、
沢山の実戦から産み出された、
共通の法則のようなものだ。
その実戦の集合が間違っていたり、
片寄っていたり、
法則の導き方が間違っていたり、
法則そのものが勘違いである可能性もある。
科学者の扱うものとは、そのような差異がある。
さらにややこしいのは、
理論なき実戦の成功、というものもある。
モテる男や経済の潤う国に理論は関係なかったりする。
強烈なオリジナリティーだけで良かったりする。
さらにややこしいのは、
芸術というのは、
たった一回名作を産み出せばよい、
という、
究極の実戦でしかないということだ。
ちなみに、
ストーリーアナリストとか言うようになって、
判で押したような、似たような映画ばかりになってきた気がする。
ブレイクシュナイダーのSave the catは名著だけど、
この構造のストーリーばかりになっているという批判もあるらしい。
ストーリー工学なんて言い方もその頃に聞き始めた。
つまりは、工場生産品のように、
角を丸めて品質を一定に整えることにしか、
理論は使えないのかも知れない。
そういえば、空手は集団で型稽古をする。
私たちの扱うオリジナルストーリーとは、
そのようでないものだけは確かだ。
俺の理論は使えるのか?
使えるところだけ使ってください。
2017年06月17日
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