複数の人が関わると、
最初にあったものが、最終的な仕上がりと、
全然別のものが出来上がってしまうことがある。
ネット用語では、たいていこういうとき、
どうしてこうなったと突っ込む。
なんでそれが起こるのか僕もちゃんとは言えない。
だが、それが、複数の人間の権力闘争になるからである、
ということは言えそうだ。
たとえば土地が余るとしよう。
複数の人間が開発に絡む。
彼らがウィンウィンでないと、
共同開発は進まないであろう。
しかし、当事者にとってはウィンウィンでも、
それが客観的に見たらルーズ一択になることは、
ままある。
なんでこんなものを作ったんだ?
というハコモノがとても多いのは、
作る人間のセンス100%に責任があるわけではない。
おそらくは最初のコンセプトは良かったのだが、
複数の人間の意見を取り入れて改造しているうちに、
訳のわからないものが出来上がったからだ。
たとえばスカイツリー。
展望台と電波塔としての役割はまあいい。
問題はソラマチなる複合テナントだ。
あれ誰も得してないよね。
地元商店会がスカイツリー建設反対を主張したときに、
開発者たちは、
「観光客が商店街に流れるから、商店街も得だ」と説得したという。
その舌の根が乾かぬうちに、
帰る人から金を巻き上げるシステムのようなソラマチを作ったわけだ。
商店街には誰一人客を流さないように作っていることは明白である。
それは、
上級国民が集まって、彼らが得するウィンウィンシステムしか出来ず、
我々庶民はその風下に居ざるを得ないという、
今の日本の閉塞を象徴している。
自分の作った配列をカタナ式と命名したのは、
僕はバイクのカタナが好きだからだ。
外人が日本刀をイメージして作った、
みたいな宣伝が当時あったけれど、
シルバーのシャープなデザインが、
僕は昔から好きだ。オレンジのスズキロゴもカッコイイ。
そういえば、その外人の元のデザインってどういうのだろうと、
調べてみて驚いた。
全然ちゃうやんけ!
ハンス・ムートのデザインしたバイクは、
元々はロッソラプター(赤い獣)なるもので、
これがどこでどう転んだら、カタナになるのかさっぱり分からない。
カタナより全然かっこええやんけ。
船頭多くして船山に登るとか、
故事のある昔から、
そういうことはあったのだろう。
ネット時代になり、
誰もがどうしてこうなったと突っ込めるようにはなったけれど、
どうしてこうなったかを解説する人はいない。
制作物が、権力闘争の場に利用されるからで、
元々のデザインの意図を普及させようということではないからだ、
ということが、問題の核であると考える。
私たちは出来上がった制作物の意図を愛するというのに。
よくあるハコモノや、カタナや、
ダメになって行く脚本は、
元々のデザインの意図を普及させようという愛が、
ないのかも知れないね。
じゃあ最初に却下すればいいじゃんね。
「第一稿はまだ完全ではないけれど、
これから手を入れれば良くなりそうだ」
というのはプロデューサーの定番である。
それは、
「この最初の意図を実現させるために頑張って完成度を上げよう」ではなくて、
「これを叩き台にして、みんなのやりたいことをぶちこむ、
ベースにしよう。シチュエーションはいいからストーリーをまるごと変えよう」
である可能性も、あるということだ。
前者のプロデューサーと付き合うべきで、
後者のプロデューサーと付き合わないことだ。
これは、原作の実写化でも同じことだ。
人気俳優を回して、映画館を回して、グッズ制作会社を回すために、
原作を歪めることに罪を感じていないバカばかりである。
ジョジョ?なにそれ?
2017年06月18日
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