2017年06月19日

表現の基本:主観と客観と、ことば

以前、大阪弁の人が共通語のセリフを書くことの困難さについて述べた。

自分のほんとうの言葉は大阪弁(東京出身者以外は、
以下大阪弁を自分の国の言葉で置き換えてください)
にであるにもかかわらず、
表現は「外国語」でしなければいかないことの困難さ。
いっそ、英語で書くなら割り切って別物として
割り切れるのかもしれないけれど。

さて、この割り切りが、
主観と客観の話では、ややこしくなってくる。
主観=大阪弁
客観=標準語
のような対応関係が、実は横たわっていたりする。


二十年前、東京に来た頃、
大阪弁で話すと、「なおせ」と言われた。
自分はまちがっているとは思っていない。
ところが、東京の人間から「まちがっている」
と言われることに、地方出身者は大変苦労する。

極論すると、上京者は二ヶ国語話者にならなければならない。

同じ日本語ではないか、ことばが違うだけだろうと、
何も知らない東京弁話者は思うかもしれない。

しかし、単語を入れ替え、イントネーションを対応させればすむ、
という問題ではない。
言葉というものは文化に深く根ざしている。
共通語と地方の言葉は一対一対応しない、
という簡単な問題ではなく、
発想そのものやこういうときはこうだという文脈が異なるのである。

たとえば大阪弁では、
ボケとツッコミが日常茶飯事であるが、
標準語ではボケとツッコミはしないことになっている。
ツッコミは批判や攻撃や修正の要求であり、
ツッコミを前提としたボケのフリなど必要ない。

標準語でのボケとツッコミの会話は、
不可能ではないが、そもそもその文化がない関東では、
それは攻撃のしあいのようなニュアンスになる。
だから、東京ではボケとツッコミの文化は育たない。

大阪人は、ツッコミを期待してボケる。
たとえば、冷蔵庫に入った写真をツイッターにあげた人たちは、
大阪でいえばボケをやっている。
ツッコミ待ちであり、
それを前提としたボケである。
しかし標準語の世界では、ボケではなく、
「けしからん行為」として認識される。
だから、大変な犯罪行為を世界にさらすとはなにごとだ、
と炎上する。
大阪の人は思うのだ。
そこまで非難せんでもと。
しかし、すべったボケについては厳しいので、
結局冷蔵庫に入ったやつは非難されるわけだ。
東京ではけしからんやつ、
大阪ではしょうもないやつと。
つまり、罪の質がちがう。
もちろん、大阪ではけしからんことよりも、
詰まらないボケのほうが罪である。

このように文化差がある、
別世界から来た人々で東京は成り立っている。


さて、そのような別世界から来た人は、
「外に向けたことば」としての、共通語をマスターする。
それは、コミュニケーションの道具としての言語であり、
第二外国語のようなものであり、
つまりは方便にすぎず、
決して本音をうまく表現することばとしてではない。

だから地方出身者は、標準語の台詞が苦手だ。
英語で台詞を書くような隔靴掻痒感が、
どこか、いつまでもつきまとう。

ためしに、自分の生まれた県の物語を書いてみたまえ。
おどろくほど生き生きとした台詞が書けるはずだ。
まるで友達が、親が、
そのへんのおっさんやおばはんがしゃべっているような、
とてもリアルな息遣いで書けるはずである。
東京の女子高生のリアルな会話が書けなくとも、
地元のしょうもない女子高生のありそうな会話なら書けるはずだ。

つまり、地方出身者にとって、
地元の言葉は自分の言葉であり、
共通語はよそものの言葉で、コミュニケーションがとれればOKの、
道具としての約束事のような、他人の方便のようなものである。



ようやく本題。


これまで、
一人称と三人称の混同について、
何度も戒めてきた。
一人称は客観性のないものになりがちで、
三人称の客観状況を基本とする映画では、
よくないものになると。

この関係が、
地元のことばと共通語の関係に似ているのだ。


地元の言葉は一種の甘えである。
皆まで説明しなくても、分ってくれるという甘えがある。
それが文化であるのだが、
逆に言うと、「その外には通じない」という危険を内包する。

共通語は、隔靴掻痒の道具でしかない。
その代わり、約束事であるから、
誰にとってもある一定の意味を伝えることが出来る。
つまり、主観性が少なく、客観的である。

三人称は客観的でなければならない。
主観的にしか通じないことを捨てて、
誰か別の人にも共有できることを語らなければならない。
それには、
甘えを捨てた外国語としての共通語のほうが、
逆説的に便利だ、ということ。


もちろん、生の言葉は文学の貴重な道具である。
しかし、それは客観性を失わず、
ちゃんと書けているかどうかチェックできないような素人が使うには危険な、
諸刃の剣であるということ。


理系の論文では、教官にもよるけど、
英語で書けという指導も存在する。
それはつまり、
価値のあることさえ書けていれば、
それはどんな言語でも成立しているはずだろ、
という客観性の保証のための方法論なのだ。

つまり、あなたのストーリーは、
たまには英語やドイツ語や韓国語で書いてみても、
いいかも知れない。

それじゃニュアンスが欠け落ちる、と痩せるのを心配するだろう。
それでいい。

それでも残る何かが、あなたのストーリーの、
客観的な三人称的な部分だったりする。

それがたいして面白くないのなら、
それは、地元の言葉で書いているときのような、
甘えがあるかもしれないということ。


甘えの許されない言語で、
書いてみるのもいいものだ。
発想そのものから、甘えが存在してることに気づけるはずである。
これは外人には伝わらない、とかね。


東京出身者にはわからない話ですいません。
posted by おおおかとしひこ at 21:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
東京出身者でも、地方に住んだことがあれば理解できる話ですね。

私は生まれが葛飾区で(あの辺りの言葉も標準語と微妙に違う)、幼稚園の頃に福島県に引っ越しました。周囲の人が中国語のような音程で話すので意味が全く分からなかったのを覚えています。普通程度にコミュニケーションをとれるようになった頃には自分の中に外向けの新しい文化が作られていました。単純に言葉を変換してもダメで、内輪の理解力に頼らない普遍的な考え方が必要になるんですよね。大岡さんの仰る通りだと思います。

客観的な三人称でうまく書けず困っていましたが、この記事のおかげで前向きに取り組めそうです。ありがとうございました。
Posted by 日本弁話者 at 2017年06月20日 01:29
日本弁話者さんコメントありがとうございます。

たまには地元の友達と地元の言葉で喋り倒すと、
ストレスも解消されたりしますね。
そのへん、帰国子女の人たちや、移民の人たちや難民は、
どういう風に折り合いをつけてるんだろうとか、
色々なことを考えてしまいます。

表現というのは簡単なようでいて難しい。
僕は「自己表現」という言葉が誤解を与えていると考えます。
発信オンリーでは表現の半分の書き散らし。
受信側との橋渡しを考えて、初めて届くと思います。

一人称小説というジャンルのことについてはよく知らないので、
あくまで三人称形の立場から書いてみました。
何かの参考になれば幸いです。

いつかこういう文化や言葉に関係する話を書いてみたいと、
実は思ってたりします。
うまく書く自信はまだないですが。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年06月20日 01:43
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