これは慣れないと難しい。
下手な人は、主人公以外を棒立ちにさせてしまう。
それは、一人(それは大抵自分)を書くので精一杯で、
誰かと誰かの絡みを書くことが話を書くことだ、
ということを忘れてしまうからである。
人一人の心のなかは、
宇宙のように広い。
だからそれを書くので精一杯になるのも、
わかるっちゃあわかる。
さらに主人公と作者が分離されていないような、
未熟者が書くと、
自分の宇宙より広い心の襞を書くのに精一杯になっしまい、
それは一人しか登場人物のいない話になってしまう。
そうではない。
最低でも二人。
二人の宇宙がなければならない。
しかも、映画において二人きりの場面などそうそうない。
たいてい、3人から5人、7人と、集団でいるものだ。
(奇数にしたのはコツがあって、
多数決をとりやすいからである。
偶数だと真っ二つに割れたとき、
話の進行が止まってしまう)
さて、
たとえば5人いるとしよう。
このとき、主人公とそれ以外をどう描写するか?
未熟者は、主人公のみの描写をしてしまう。
つまり、のこり4人は、ただいるだけの棒人形になってしまう。
何のためにここにいるのか、
何しにここにいるのか、
目的は何か、
個人的事情はなにか、
今の議題について言いたいことはあるのか、
あるいは黙っているべきだと判断してあえて何も言えないのか、
あるいはカットインするタイミングを狙っているのか、
この場をどうしたいのか、
どうすればこの場を納めたことになると考えているのか、
などなどを決めていないと、
5人の場面は書くことができない。
え?そんなに決めとかなきゃいけないの?
そうだよ。
逆に決めていないから、
ただ棒立ちの人になってしまうのである。
加えて、
5人もいれば、てんでバラバラに発言するわけにはいかず、
同時に喋るのは一人である。
つまり、「その場の会話の流れ」というものがある。
たとえ言いたいことがあっても、
その風向きにならない限り、
なかなか言い出さないだろうね。
あるいは、どうしても言いたいのなら、
風向きを変える発言をしてから、
その場に言いたいことを言うはずである。
会議や、喫茶店の会話、飯時、飲み会。
集団でいるときの会話は、
場の流れと、それぞれの思惑で成り立っている。
その力の均衡がどちらへ動くかが、
場面の流れというものである。
ただぼーっといるだけになっているのは、
そういうことに無関知で、
自分しか見ていない人、ということになるわけだ。
最近大家族でもない、
飲み会にも来ない、
若者は、この集団の描写が下手なように感じる。
発言をしない陰キャは場に入ってもいけないし。
そういうのが苦痛だから、
一人で出来る鑑賞や執筆に時間を使うのだろうし。
しかし、あなたのストーリーを見るのは、
陰キャも陽キャも普通の人も、
全員であることを忘れてはならない。
ということは、ごく普通の、
集団でいるときの会話が、
ごく普通に書けないと不自然だということ。
実際のところ、5人を5人とも均等に描くことは、
ベテランでもない限り相当難しい。
5人のそれぞれの内面のことを区別しながら、
それぞれの思惑の流れを考えながら、
場の空気の流れを作っていくことは、
相当の腕がいる。
しかし、「一度に喋るのは一人」
という原則をうまく使えば、
「11人の怒れる男」のように、
11人の密室会話劇すら、書けるようになるだろう。
(かなりの腕がいる)
誰かが喋っている間、
その人はその話題のことについて何を考えているか、
あるいは別のことを腹で考えているか、
それを考えていけば組み立てやすいだろう。
(こういうとき若者は、スマホをいじるのに逃げがち)
さて、
慣れてきたら、
数人の場面が書けるようになる。
というか、それが基本にならなければならない。
ところで、
5人その場にいたら、
5人のことを考慮に入れるだけでは不完全である。
もう一人いる。
6人目は、すなわち観客だ。
その5人の会話が、6人目にどのように見えているか、
腹だけで考えず、
外から見てとれるように、
組み立てなければならない。
2017年06月20日
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