2017年06月20日

そこに何人いて、それぞれ何を考えているのか

これは慣れないと難しい。
下手な人は、主人公以外を棒立ちにさせてしまう。
それは、一人(それは大抵自分)を書くので精一杯で、
誰かと誰かの絡みを書くことが話を書くことだ、
ということを忘れてしまうからである。


人一人の心のなかは、
宇宙のように広い。
だからそれを書くので精一杯になるのも、
わかるっちゃあわかる。

さらに主人公と作者が分離されていないような、
未熟者が書くと、
自分の宇宙より広い心の襞を書くのに精一杯になっしまい、
それは一人しか登場人物のいない話になってしまう。

そうではない。

最低でも二人。
二人の宇宙がなければならない。

しかも、映画において二人きりの場面などそうそうない。
たいてい、3人から5人、7人と、集団でいるものだ。
(奇数にしたのはコツがあって、
多数決をとりやすいからである。
偶数だと真っ二つに割れたとき、
話の進行が止まってしまう)

さて、
たとえば5人いるとしよう。
このとき、主人公とそれ以外をどう描写するか?

未熟者は、主人公のみの描写をしてしまう。
つまり、のこり4人は、ただいるだけの棒人形になってしまう。

何のためにここにいるのか、
何しにここにいるのか、
目的は何か、
個人的事情はなにか、
今の議題について言いたいことはあるのか、
あるいは黙っているべきだと判断してあえて何も言えないのか、
あるいはカットインするタイミングを狙っているのか、
この場をどうしたいのか、
どうすればこの場を納めたことになると考えているのか、
などなどを決めていないと、
5人の場面は書くことができない。

え?そんなに決めとかなきゃいけないの?
そうだよ。
逆に決めていないから、
ただ棒立ちの人になってしまうのである。

加えて、
5人もいれば、てんでバラバラに発言するわけにはいかず、
同時に喋るのは一人である。
つまり、「その場の会話の流れ」というものがある。
たとえ言いたいことがあっても、
その風向きにならない限り、
なかなか言い出さないだろうね。
あるいは、どうしても言いたいのなら、
風向きを変える発言をしてから、
その場に言いたいことを言うはずである。

会議や、喫茶店の会話、飯時、飲み会。
集団でいるときの会話は、
場の流れと、それぞれの思惑で成り立っている。
その力の均衡がどちらへ動くかが、
場面の流れというものである。

ただぼーっといるだけになっているのは、
そういうことに無関知で、
自分しか見ていない人、ということになるわけだ。


最近大家族でもない、
飲み会にも来ない、
若者は、この集団の描写が下手なように感じる。
発言をしない陰キャは場に入ってもいけないし。
そういうのが苦痛だから、
一人で出来る鑑賞や執筆に時間を使うのだろうし。

しかし、あなたのストーリーを見るのは、
陰キャも陽キャも普通の人も、
全員であることを忘れてはならない。

ということは、ごく普通の、
集団でいるときの会話が、
ごく普通に書けないと不自然だということ。


実際のところ、5人を5人とも均等に描くことは、
ベテランでもない限り相当難しい。
5人のそれぞれの内面のことを区別しながら、
それぞれの思惑の流れを考えながら、
場の空気の流れを作っていくことは、
相当の腕がいる。
しかし、「一度に喋るのは一人」
という原則をうまく使えば、
「11人の怒れる男」のように、
11人の密室会話劇すら、書けるようになるだろう。
(かなりの腕がいる)

誰かが喋っている間、
その人はその話題のことについて何を考えているか、
あるいは別のことを腹で考えているか、
それを考えていけば組み立てやすいだろう。

(こういうとき若者は、スマホをいじるのに逃げがち)


さて、
慣れてきたら、
数人の場面が書けるようになる。
というか、それが基本にならなければならない。

ところで、
5人その場にいたら、
5人のことを考慮に入れるだけでは不完全である。

もう一人いる。
6人目は、すなわち観客だ。

その5人の会話が、6人目にどのように見えているか、
腹だけで考えず、
外から見てとれるように、
組み立てなければならない。
posted by おおおかとしひこ at 13:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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