2017年06月20日

ギリギリでいること

常に危険と隣り合わせで、
果たしてどうなるか分からない。
それな物語である。
安全圏でいる奴は、魅力がない。
死か生か、ギリギリのところに魅力はある。
それは人間の生き方でもいいし、
シチュエーションでも設定でもいい。
とにかく危険ランプが回りっぱなし、
それが物語だ。


現実で、危険ランプが何日もつきっぱなしなんてことはそうそうない。
よはどの人生の正念場ならあるけれど、
99%以上は安全で怠惰な日常にいられるようになっている。(日本は)

だからこそ、
我々は物語を見るのだ。
安全圏から、ギリギリの生と死の隙間を見て、娯楽とするのである。

たとえば売れなかったら即引退の崖っぷちアイドルや、
借金を返すために一分たりともさぼれないほど働く人は、
物語を見ないだろう。
物語を見るのには、余裕がいる。

余裕という名の一種の退屈が、
物語を見るモチベーションだ。

私たちは、事故死しない安全圏から、
事故死しかねないスタントを見物する。
しかも砂かぶり席で。

航空ショーのアクロバットは、
たとえ落ちてもまず自分に破片が降ってこないから、
安心して見に行けるのだ。
これが飛行機の後部座席なら絶対に無理だろう。

格闘技は金網に囲まれてやってるから興奮するのであり、
自分が同じリングにいて、パンチやキックが飛んでくるのなら、
とてもじゃないが見てられない。

つまり、見物とは、
参加せずに参加することだ。
相変わらず下ネタにたとえれば、AVはその典型だ。
(昭和のストリップでは、まな板本番ショーと称して、
客を板の上にあげ、公開セックスをしていたものだ。
生で見たことはないが)



僕はAKBは、そういうストーリーだと思っている。
彼女たちのギリギリの人生を、
絶対安全圏から楽しむ劇場であると。

劇場型アイドルというのは、
秋葉原の具体的ハコのことではなく、
劇場型犯罪のほうの劇場の意味だ。
彼女たちのギリギリの人生を楽しむのだ。
指原莉乃が分かりやすい。
ポーズだろうが真実だろうがどっちでもいい。
ギリギリの路線で当たっていて、
外れたら追放だっただけだ。

今回の結婚発表も、面白いギリギリを考えたなあ、
と感心して笑ってしまった。
彼女につぎ込んだファンごと笑うという、
安全圏を犯すプロレスである。
しかしその絶対数は少ないから、まあいいかという。
悪役レスラーが観客をはたくような、
プロレスを僕はそこに見た。

こじはるやまゆゆとかでやらない所が、
多くの人を絶対安全圏に置く役割を果たしている。
それはプロレス会場で、
花道にいかなければ悪役に殴られることもない、
ほとんどの観客の気持ちである。
でも実際に悪役に殴られているから、
これは本物のギリギリであるぞ、
と身を引き締める。

それはすなわち、ギリギリの演出ということだ。
まな板本番ショーと同じである。


勿論、私たちの書く脚本は、
途中で観客に被害を及ぼすような物理的越境はしない。
だけど、
実は心というものに、ギリギリの越境を与えることが出来る。
私たちは、そのような新しいギリギリを創作するのが仕事である。

ちょっと前に流行ったNTRやビッチヒロインは、
手軽に男子が傷つくことが出来る、技のひとつであったわけだ。



登場人物たちは、ギリギリで生きている。
私たちは、それを観客席で楽しむ。

昔、ギリギリのことが書けなかった作家は、
自らギリギリのことをしてみた。
自殺未遂や鬱やクスリに溺れるのもそのひとつだ。
危険な場所へ取材しにいくのも、ギリギリのひとつだ。
でもそんなことしなくても、
あなたの脳内にギリギリを作ればいいだけなんだよ。

ギリギリでいたいから、ああ、
とデビューしたうちの一人が、
リアルにギリギリを踏み外してしまったねえ。

そんなの望んでない。

私たちは、ギリギリのショウが欲しい。
posted by おおおかとしひこ at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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