つづき。
極論すれば、
大阪弁は主観(一人称)、
標準語は客観(三人称)。
で、標準語のような第二言語で、
大阪弁のようなことを表現したいとき。
もどかしい。表現したいことが、表現できない。
これは表現できるのだろうか。
結論から言うと、
「原理的に不可能であるが、原理的に別のやり方が存在する」。
標準語で大阪的な発想を表現することは不可能である。
少なくとも大阪弁話者のような距離感では。
話者との距離は、標準語のほうがある。
どうしても肌の距離までいくことは出来ない。
むしろ、その距離が標準語である。
(標準語を母国語とする人はいるのかな。
たぶん関東出身者でも、微妙に標準語と違うローカルな言語があると、
僕は考えている。それは地域の言葉もあるだろうし、
仲間うち3人にしか通じない言葉もあるだろう。
つまり、人の言葉はローカルとグローバルを行き来する。
Tシャツから喪服まであるということだ。
僕は大阪弁話者なので、
以下の大阪弁をそれぞれのローカルことばで置き換えて下さい)
標準語は主観から、なにがしかの距離を置く。
それが客観であることの定義のように。
じゃあ原理的に、大阪弁の世界は表現でけへんやんけ。
それを標準語で表現することは、
別の方法なら原理的に可能であり、
僕は表現とはそれをすることだと考えている。
先に結論をいうと、感情移入によってである。
僕はこれまで感情移入について、深く議論してきた。
沢山の感情移入に似たものと区別し、
物語における感情移入を、とても限定してきた。
その骨子を書けば、
「自分と同じものを見つけることで、
他人の気持ちがわかる」
ことが感情移入である。
つまり、大阪弁を使わずとも、
大阪弁で表現したいようなことを、
「あなたにもあるよねこういうこと」
と標準語で表現すると、
大阪弁話者も、博多弁話者も、北海道も沖縄も横浜も、
「わかる」となるのである。
しかも、そのわかり方は、
標準語による理解ではなく、
それぞれの言語による深い理解である、
というところが、「感情」移入というもののポイントだ。
それぞれに共通の理解を、
標準語なる客観言語で示すことで、
仮に具体的な共通体験がなくとも、
「全く同じ体験ではないが、似たような体験がおれにもある」
と、個々の主観に引き付けて考え始める。
これが感情移入である。
たとえば。
ムカつく上司を殴って説教したい、
好きな子に告白したいけど勇気がない、
詰まらない仕事はサボって、誰もいない屋上でぼーっとしたい、
自分の能力が認められ、火を吹く瞬間に立ち会いたい、
親しい人が去っていくのは悲しい、
失う痛みは辛い、
自分だけのけ者にされた感じ、
旨いものを食うと幸せ、
目的のためにやりたいことを我慢する、
などなどなど。
こういうことは、言語や文化が違ったとしても、
つまり具体的なシチュエーションやセリフや設定が違っていても、
「俺にも似たようなことがあった」
と、「わかる」のである。
僕が大阪弁で表現したいことを、
分かるように標準語に変換することで、
たとえば東北の人が、東北の言葉で理解する。
「オラにもおんなずこどがあってよ」と。
(東北弁はてきとうです)
しかも、大阪弁のローカリティは捨象されて、
その人の中では、東北のローカリティでイメージが構築されてゆく。
これが、表現ということである。
謝った表現観は、
「表現者と受け取る側の共通体験を話す」である。
大阪の天才、嘉門達夫の歌の中に、
「ハイお釣り100万円〜」というおっちゃんが出てくるが、
100円玉をそう返してくる大阪のしょうもないおっさんがいるから、
これは成り立つ。
しかしおそらく、全国にこんな人はいない。
だから、共通体験を持つ大阪の人たちには、
「そうそうそう!」と仲良くなることは出来るが、
そうでないところでは、つまりはスルーされる。
(逆に大阪人同士はとても結束する)
「分かる人だけ分かれば良い」と言うのは、
僕は表現者の怠慢、あるいは無能だと思っている。
共通体験を話すのは、
仲間意識でしかない。
そこでしか通じない主観である。
そしてほとんどのマーケティングは、
年齢や性や地方や年収などで、仲間意識をセグメント化して、
次第に市場を縮小していく。
仲間に入れない人を、追い出すからである。
真の表現は、
仲間意識で仲良くなろうとしない。
強いて言えば、「私たちは人である」という仲間意識を、
利用するのである。
で、じゃあ、
「私たちは人である」とはどういうことなんだっけ、
と考え始めると、
上で例に出したような、
感情移入への具体的な、
「わかるよ、そういうこと」という気持ちを、
列挙することが出来るだろう。
こういうときには、こういう風に思う。
こういうときには、こういう行動をしてしまう。
それをうまく掬い取れるかが、
「その作家は、人間というものをどのように考えているか」
ということなのである。
道徳の教科書に乗っているような、
誰もが拍手するようなことから、
「人は気に入らないやつがいたら陰険になる」
みたいな小さく誉められないことまで、
それは、どのようなことを書いてもよい。
どのようなことを書くか、
それをどのような具体で書くか。
これを、テーマとモチーフというのである。
色々なことが、ようやく繋がってきたね。
この文章だって、
大阪弁というモチーフ、お釣り百万円というモチーフで、
感情移入と共通体験の違いというテーマを、
語っているわけだね。
だから。
あなたの大阪弁は、標準語で書いても、
伝わるよ。
うまく書ければ。
2017年06月21日
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