2017年06月21日

主観と客観とことば2

つづき。
極論すれば、
大阪弁は主観(一人称)、
標準語は客観(三人称)。

で、標準語のような第二言語で、
大阪弁のようなことを表現したいとき。
もどかしい。表現したいことが、表現できない。


これは表現できるのだろうか。


結論から言うと、
「原理的に不可能であるが、原理的に別のやり方が存在する」。


標準語で大阪的な発想を表現することは不可能である。
少なくとも大阪弁話者のような距離感では。

話者との距離は、標準語のほうがある。
どうしても肌の距離までいくことは出来ない。

むしろ、その距離が標準語である。

(標準語を母国語とする人はいるのかな。
たぶん関東出身者でも、微妙に標準語と違うローカルな言語があると、
僕は考えている。それは地域の言葉もあるだろうし、
仲間うち3人にしか通じない言葉もあるだろう。
つまり、人の言葉はローカルとグローバルを行き来する。
Tシャツから喪服まであるということだ。
僕は大阪弁話者なので、
以下の大阪弁をそれぞれのローカルことばで置き換えて下さい)


標準語は主観から、なにがしかの距離を置く。
それが客観であることの定義のように。

じゃあ原理的に、大阪弁の世界は表現でけへんやんけ。

それを標準語で表現することは、
別の方法なら原理的に可能であり、
僕は表現とはそれをすることだと考えている。


先に結論をいうと、感情移入によってである。


僕はこれまで感情移入について、深く議論してきた。
沢山の感情移入に似たものと区別し、
物語における感情移入を、とても限定してきた。
その骨子を書けば、
「自分と同じものを見つけることで、
他人の気持ちがわかる」
ことが感情移入である。

つまり、大阪弁を使わずとも、
大阪弁で表現したいようなことを、
「あなたにもあるよねこういうこと」
と標準語で表現すると、
大阪弁話者も、博多弁話者も、北海道も沖縄も横浜も、
「わかる」となるのである。

しかも、そのわかり方は、
標準語による理解ではなく、
それぞれの言語による深い理解である、
というところが、「感情」移入というもののポイントだ。

それぞれに共通の理解を、
標準語なる客観言語で示すことで、
仮に具体的な共通体験がなくとも、
「全く同じ体験ではないが、似たような体験がおれにもある」
と、個々の主観に引き付けて考え始める。
これが感情移入である。


たとえば。
ムカつく上司を殴って説教したい、
好きな子に告白したいけど勇気がない、
詰まらない仕事はサボって、誰もいない屋上でぼーっとしたい、
自分の能力が認められ、火を吹く瞬間に立ち会いたい、
親しい人が去っていくのは悲しい、
失う痛みは辛い、
自分だけのけ者にされた感じ、
旨いものを食うと幸せ、
目的のためにやりたいことを我慢する、
などなどなど。

こういうことは、言語や文化が違ったとしても、
つまり具体的なシチュエーションやセリフや設定が違っていても、
「俺にも似たようなことがあった」
と、「わかる」のである。

僕が大阪弁で表現したいことを、
分かるように標準語に変換することで、
たとえば東北の人が、東北の言葉で理解する。
「オラにもおんなずこどがあってよ」と。
(東北弁はてきとうです)
しかも、大阪弁のローカリティは捨象されて、
その人の中では、東北のローカリティでイメージが構築されてゆく。

これが、表現ということである。


謝った表現観は、
「表現者と受け取る側の共通体験を話す」である。
大阪の天才、嘉門達夫の歌の中に、
「ハイお釣り100万円〜」というおっちゃんが出てくるが、
100円玉をそう返してくる大阪のしょうもないおっさんがいるから、
これは成り立つ。
しかしおそらく、全国にこんな人はいない。
だから、共通体験を持つ大阪の人たちには、
「そうそうそう!」と仲良くなることは出来るが、
そうでないところでは、つまりはスルーされる。
(逆に大阪人同士はとても結束する)



「分かる人だけ分かれば良い」と言うのは、
僕は表現者の怠慢、あるいは無能だと思っている。

共通体験を話すのは、
仲間意識でしかない。
そこでしか通じない主観である。
そしてほとんどのマーケティングは、
年齢や性や地方や年収などで、仲間意識をセグメント化して、
次第に市場を縮小していく。
仲間に入れない人を、追い出すからである。

真の表現は、
仲間意識で仲良くなろうとしない。

強いて言えば、「私たちは人である」という仲間意識を、
利用するのである。


で、じゃあ、
「私たちは人である」とはどういうことなんだっけ、
と考え始めると、
上で例に出したような、
感情移入への具体的な、
「わかるよ、そういうこと」という気持ちを、
列挙することが出来るだろう。

こういうときには、こういう風に思う。
こういうときには、こういう行動をしてしまう。

それをうまく掬い取れるかが、
「その作家は、人間というものをどのように考えているか」
ということなのである。


道徳の教科書に乗っているような、
誰もが拍手するようなことから、
「人は気に入らないやつがいたら陰険になる」
みたいな小さく誉められないことまで、
それは、どのようなことを書いてもよい。

どのようなことを書くか、
それをどのような具体で書くか。

これを、テーマとモチーフというのである。


色々なことが、ようやく繋がってきたね。

この文章だって、
大阪弁というモチーフ、お釣り百万円というモチーフで、
感情移入と共通体験の違いというテーマを、
語っているわけだね。



だから。

あなたの大阪弁は、標準語で書いても、
伝わるよ。

うまく書ければ。
posted by おおおかとしひこ at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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