さらにつづき。
で、そもそも、実は、
ことばというものが、そのような道具に過ぎないのだ。
私たちの本当の気持ちは気持ちでしかなく、
ことばではない。
ことばはあくまで方便である。
もしあなたが「自分の気持ちをうまく表現できない」
で悩んでるのだとしたら、
「方便のための道具を沢山知らない」か、
「全ての道具を知ったとしても、ことばは気持ちと距離がある」
の、どっちかしかでないということだ。
人生の最初のうちは、
ことばを知らないことによる不利益が大きい。
沢山ことばを知るに越したことはない。
大阪に行くのに、
飛行機でも新幹線でも自転車でも、
手段は多い方がいい。
ひとつしか知らないと、それがダメなときのリカバーが効かない。
ことばは道具だから、
ひとつしか使い道のないものではない。
沢山ことばを知ってくると、
(たとえば数万語)
たいしてことばを知ることの利益がなくなってくる。
あるひとつの新しい概念も、
ことばの組み合わせで事足りるようになってくるからだ。
勿論、それが新しくかつ多用するのなら、
短くまとまった新語になる可能性がある。
ネットはその最先端の実験場のひとつで、
古いけど「ファビョる」なんてのは、
新しい現象をうまく表現した新しい方便の道具である。
さて、
しかし、ことばは万能ではない。
所詮道具である。
私たちの思考や感情は、
もともと言葉を持っていない。
言葉は、あとで生まれたものである。
だから、ことばは永遠に気持ちに追いつかない。
そもそもあなたの気持ちは、
ことばに落とした時点で、
どこかこぼれ落ちる。
ことばに出来ない気持ちを、こぼれ落ちることばで伝えるのは、
そもそもことばという道具の性質を知らないのである。
気持ちは大阪弁で、
言葉を標準語にたとえるならば、
どんなに標準語を駆使しても、
大阪弁のことばは表現できないのである。
だから私たちは、別の方法を使う。
ことばを、中間ソースとして使い、
相手の受け取った心の中で、
それが大阪弁に展開されるようにするのである。
これを、想像が膨らむようにする、
などと言う。
簡単なのは省略法だ。
「その化け物は光る目をしていた」
と書けば、光る目以外は省略されている。
しかし人の想像は、その部分を補う。
補うことで、自分の中にその感情を展開させる。
この場合伝える気持ちは、「こわい」である。
これさえ伝わればよい。
その化け物が長い体毛をしていようが、
長く鋭い爪があろうが、
額に禍々しい模様があろうが、
獰猛な声を出そうが、逆に猫なで声だろうが、
黒かろうが灰色だろうが、
それは想像すればいい。
「こわい」が伝われば、
その人はたとえば東北弁でのこわい感情を展開するだろう。
なまはげとかの記憶があれば、
その化け物は彼の中では「赤い」かも知れない。
主観的な気持ちを、客観的なことばで伝えることは、
つまりはこういうことなのだ。
私たちはAをAと表現するのが仕事ではない。
AをBと表現し、Bを見た人がAになるように作る。
Bはことばでもいいし、標準語でもいいし、
映像でもコントでもストーリーでも構わない。
この辺を分かっていないと、
いつまでたっても「すぐれた表現」の意味がわからない。
「私の気持ちがこんなに上手く表現されている!」
とJポップの歌詞を言うのは、
Aの話をしている。
「一見全く違うBなのだが、Aになるように、
最も劇的で、かつ多くの人に届くように、
しかも最小のものによる、
最大の効率になっている」
と表現BとAの関係を考えることが、
すぐれた表現について考えることだ。
このブログのような解説文では、
AをBで表現するような、高度な表現を使わない。
ストレートにAに近いことばを使う。
Bを凝っている暇もないからね。
例外のひとつは、たとえばなしだ。
大阪弁と標準語の関係の方が、
あなたの中で「わたしにもこういうことがある」
と、思いやすいと、僕は考えたわけだ。
実感を伴う、と。
ことばすら、所詮はBである。
すべての表現は、所詮はBだ。
それで、どうやってAを表現したことになるか、
それは上手いやり方(効率がいい、スピードが速い)か。
そしてそれは、新しい、上手いやり方か。
そしてそれは、深いAに届くのか。
私たちは、それを競っている。
2017年06月21日
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