普通の人は、あまりオーディションをしたことはないかも知れない。
受けた人は、ちょっと多いかも知れない。
僕らの日常は、オーディションが毎月あるような生活である。
受けるのではなく、キャスティングする側のだ。
ところで、オーディション慣れ(選ぶ側)してる人と、
してない人がいる。
それは、ライターとしての資料探し、
ネタ探しに似ていると思った。
オーディションで選ぶ側は、
なにを考えているのだろう。
沢山落ちた人は、そう考えをめぐらせるに違いない。
これは例えば就職面接でも同じだし、
恋人探しと同じかもしれない。
なぜあの人が選ばれて、自分は選ばれなかったのかと。
一度、選んでみる側に立ってみよう。
オーディション慣れしていない人は、
「理想そのままの人」を探す。
ドラマ「風魔の小次郎」のオーディションのことを、
たまに書くけど、
300人見て、
「あの、漫画に出てくる、小次郎はいない」
ということに僕は気づくわけである。
よく言う。
「イメージにぴったりの人を探す」などと。
そんなのいない。
イメージが、膨らんで膨らむほどである。
僕は小学生のころから小次郎とイメージの中で生きてきたから、
そのままの小次郎は、現実にいないことを知るのである。
イメージが強いと、そういうことがよくある。
「イメージにぴったりの人がいた」なんて言う人は、
そのイメージが貧弱な人だけだ。
自分の貧弱なイメージよりも、
理想に近い人が見つかった、
ということをそう言っているに過ぎないのだ。
さらにイメージが貧弱な人の話。
「自分の貧弱なイメージを超えた、すごい才能が来た」
という人が時々いる。
それは、才能への無茶ぶりである。
自分の判断基準などなく、
とにかく今自分が面白いと思う人を探すだけ。
いなかったら、いないと言い、また探すだけ。
それでは、探し方がわからない。
だから、アテモノになってしまう。偶然だ。
もちろん、この偶然は、2000回に一回ぐらいはある。
「ドアを開けて入って来た瞬間、この子だと分かった」
なんて伝説があるけど、それは、
たまたま、その人がそこにいて、
それ以上の人がそこにいなかったという、
偶然のことを言っているに過ぎない。
(いまだに惜しくて時々言うんだけど、
まだ芦田愛菜がブレイクする前に、
オーディションで見たことあるんだよね。
それはクレラップのオーディションだった。
残念ながら、彼女の才能をもってしても、
初代の子にはかなわなかった。
実力では芦田愛菜だけど、
素朴な田舎っぽい元気さがクレラップにはほしかったのだ。
オーディションでは、そういう、そこに違う人がいた、
という偶然もある。
普段いいことをして徳を積むしか、
偶然を引き寄せる方法はないよね)
まとめる。
オーディション(選ぶ側)素人は、
自分のイメージがないので、
偶然入って来た偶然を選ぶ。
オーディション(選ぶ側)慣れしていない人は、
自分のイメージが貧弱だから、
イメージにぴったりな人を選ぶ。
では、オーディション慣れしてる人は?
イメージやゴールが、あまりにも明確だと、
来た人全員が、イメージと違うことになる。
だから、「この人となら、イメージを最終的に作れそうか」
という点で、人を選ぶのである。
もちろん、共同作業になるわけだから、
自分のアイデアだけでなく、
その人がその台本を読んで、自分なりに解釈してきた、
そのキャラクターもある。
それを融合して、すり合わせていったとき、
イメージに漸近する、または、そのイメージを超えそうなとき、
その人を選ぶのである。
風魔の小次郎に話を戻すと、
小次郎はいなかった。
しかし、村井良大という若者とならば、
村井小次郎という、21世紀の小次郎を作れそうだと、
僕は何次にもわたるオーディションで、
思ったのだ。
なぜ何次にも分けてオーディションするかというと、
一回、たかだか15分でその人を見極めるのは困難だからである。
三次までやれば、その人と三回会える。
その中で、「この人とならやれそうか」を見極めるのが、
僕はオーディションであると考えている。
ようやく本題。
これは、書くときも同じなのだ。
私たちは、ネタを日々探している。
こういう話がいいかな、ああいうジャンルだといいかなと。
その資料探しが下手な人は、
オーディションが下手な人と同じだ。
イメージがそもそもないから、
偶然いいネタに当たるまで探す。
これは、確率が一番低いやり方である。
イメージが貧弱だから、
イメージ以上のが来たら、すぐ飛びつく。
これは、そのことについて無知な時に起こりやすい。
そのネタが使い古されていたり、
自分だけが知らなくて新鮮に見えていただけ、
ということを除去しきれない。
「それは、いったいどのようなことか」と、
自分で良く知り、周辺のことまで理解して、
はじめてそのネタを使えるようになるはずなのに、
自分のイメージ以上のものに出会った時点で、
それはすごい、最高、と誤解する。
オープンな場所に出れば、無視される程度のことなのに。
いい資料探しは、自分側にすでになにかがある。
いろいろ探っていくうえで、
「これなら、自分の考える〇〇を、
実現できそうだ」というものを、
見つけに行くのが、
いい資料探しである。
ちょっと違った別のものや、
惜しくも採用にならなかったことについても、
詳しくなることもできる。
だから、生きた知識として身につく。
「なにかないか?」
と、やみくもに資料をあたるのは、あほである。
資料に向かうときに指針がないのは、
目的もないのに船を嵐に出すことにひとしい。
ということで、オーディションに落ちた人よ。
たまたまあなたの才能と、合ってる役がなかっただけだよ。
あるいは選ぶ側も、
オーディション慣れしてなかっただけかもしれない。
さて、理想の恋人はいない。
その人と、理想を見ていけるかどうかである。
いい女いねえなあ、誰かいねえの?というのは、
オーディションの下手な、
資料探しの下手な人の台詞である。
2017年06月22日
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