2017年06月22日

オーディションと資料探しの共通点

普通の人は、あまりオーディションをしたことはないかも知れない。
受けた人は、ちょっと多いかも知れない。
僕らの日常は、オーディションが毎月あるような生活である。
受けるのではなく、キャスティングする側のだ。

ところで、オーディション慣れ(選ぶ側)してる人と、
してない人がいる。
それは、ライターとしての資料探し、
ネタ探しに似ていると思った。


オーディションで選ぶ側は、
なにを考えているのだろう。
沢山落ちた人は、そう考えをめぐらせるに違いない。
これは例えば就職面接でも同じだし、
恋人探しと同じかもしれない。
なぜあの人が選ばれて、自分は選ばれなかったのかと。

一度、選んでみる側に立ってみよう。

オーディション慣れしていない人は、
「理想そのままの人」を探す。
ドラマ「風魔の小次郎」のオーディションのことを、
たまに書くけど、
300人見て、
「あの、漫画に出てくる、小次郎はいない」
ということに僕は気づくわけである。

よく言う。
「イメージにぴったりの人を探す」などと。
そんなのいない。
イメージが、膨らんで膨らむほどである。
僕は小学生のころから小次郎とイメージの中で生きてきたから、
そのままの小次郎は、現実にいないことを知るのである。
イメージが強いと、そういうことがよくある。

「イメージにぴったりの人がいた」なんて言う人は、
そのイメージが貧弱な人だけだ。
自分の貧弱なイメージよりも、
理想に近い人が見つかった、
ということをそう言っているに過ぎないのだ。

さらにイメージが貧弱な人の話。
「自分の貧弱なイメージを超えた、すごい才能が来た」
という人が時々いる。
それは、才能への無茶ぶりである。
自分の判断基準などなく、
とにかく今自分が面白いと思う人を探すだけ。
いなかったら、いないと言い、また探すだけ。
それでは、探し方がわからない。
だから、アテモノになってしまう。偶然だ。

もちろん、この偶然は、2000回に一回ぐらいはある。
「ドアを開けて入って来た瞬間、この子だと分かった」
なんて伝説があるけど、それは、
たまたま、その人がそこにいて、
それ以上の人がそこにいなかったという、
偶然のことを言っているに過ぎない。

(いまだに惜しくて時々言うんだけど、
まだ芦田愛菜がブレイクする前に、
オーディションで見たことあるんだよね。
それはクレラップのオーディションだった。
残念ながら、彼女の才能をもってしても、
初代の子にはかなわなかった。
実力では芦田愛菜だけど、
素朴な田舎っぽい元気さがクレラップにはほしかったのだ。
オーディションでは、そういう、そこに違う人がいた、
という偶然もある。
普段いいことをして徳を積むしか、
偶然を引き寄せる方法はないよね)



まとめる。
オーディション(選ぶ側)素人は、
自分のイメージがないので、
偶然入って来た偶然を選ぶ。

オーディション(選ぶ側)慣れしていない人は、
自分のイメージが貧弱だから、
イメージにぴったりな人を選ぶ。

では、オーディション慣れしてる人は?
イメージやゴールが、あまりにも明確だと、
来た人全員が、イメージと違うことになる。

だから、「この人となら、イメージを最終的に作れそうか」
という点で、人を選ぶのである。
もちろん、共同作業になるわけだから、
自分のアイデアだけでなく、
その人がその台本を読んで、自分なりに解釈してきた、
そのキャラクターもある。
それを融合して、すり合わせていったとき、
イメージに漸近する、または、そのイメージを超えそうなとき、
その人を選ぶのである。


風魔の小次郎に話を戻すと、
小次郎はいなかった。
しかし、村井良大という若者とならば、
村井小次郎という、21世紀の小次郎を作れそうだと、
僕は何次にもわたるオーディションで、
思ったのだ。

なぜ何次にも分けてオーディションするかというと、
一回、たかだか15分でその人を見極めるのは困難だからである。
三次までやれば、その人と三回会える。
その中で、「この人とならやれそうか」を見極めるのが、
僕はオーディションであると考えている。



ようやく本題。
これは、書くときも同じなのだ。

私たちは、ネタを日々探している。
こういう話がいいかな、ああいうジャンルだといいかなと。

その資料探しが下手な人は、
オーディションが下手な人と同じだ。

イメージがそもそもないから、
偶然いいネタに当たるまで探す。
これは、確率が一番低いやり方である。

イメージが貧弱だから、
イメージ以上のが来たら、すぐ飛びつく。
これは、そのことについて無知な時に起こりやすい。
そのネタが使い古されていたり、
自分だけが知らなくて新鮮に見えていただけ、
ということを除去しきれない。
「それは、いったいどのようなことか」と、
自分で良く知り、周辺のことまで理解して、
はじめてそのネタを使えるようになるはずなのに、
自分のイメージ以上のものに出会った時点で、
それはすごい、最高、と誤解する。
オープンな場所に出れば、無視される程度のことなのに。

いい資料探しは、自分側にすでになにかがある。
いろいろ探っていくうえで、
「これなら、自分の考える〇〇を、
実現できそうだ」というものを、
見つけに行くのが、
いい資料探しである。

ちょっと違った別のものや、
惜しくも採用にならなかったことについても、
詳しくなることもできる。
だから、生きた知識として身につく。



「なにかないか?」
と、やみくもに資料をあたるのは、あほである。

資料に向かうときに指針がないのは、
目的もないのに船を嵐に出すことにひとしい。



ということで、オーディションに落ちた人よ。
たまたまあなたの才能と、合ってる役がなかっただけだよ。
あるいは選ぶ側も、
オーディション慣れしてなかっただけかもしれない。


さて、理想の恋人はいない。
その人と、理想を見ていけるかどうかである。

いい女いねえなあ、誰かいねえの?というのは、
オーディションの下手な、
資料探しの下手な人の台詞である。
posted by おおおかとしひこ at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック