2017年06月23日

主観と客観と、ことば4

誤解の話。

主観という大阪弁を、
客観という標準語で表現する。
(この一連では、大阪弁はたとえである)
記号や約束事としての標準語を受け取った、
東北弁や沖縄弁や名古屋弁や、英語話者が、
それぞれの主観世界で再構築する。
それが表現である、というのがあらすじ。

このとき、どうしても起こることがある。
誤解が起こることである。



誤解は避けようがないのだろうか?
僕は、避けえないという立場からこの稿を書いてみたい。

大阪弁を、標準語に変換するのだから、
それをそれぞれの東北弁や博多弁で、
それぞれの中に再現してもらうのだから、
100%ニュアンスも伝わるはずがない。
原理的にだ。


そこで二つの立場がある。

「より説明を詳しくして、誤解の起こる範囲を狭くしよう」
という考え方と、
「誤解が起こるのが嫌だから、大阪弁でしか表現しない」
考え方である。

後者のほうがわかりやすい。
大阪の気持ちは大阪にしかわからないんだから、
君がこれを分かろうとすることが「違う」のだ、
という考え方だ。
近年の、顧客のセグメント化はそういうことである。
「少女漫画なんだから、
おっさんが文句をつけるのは筋違い」という考え方だ。
いくら男にリアリティーがないと批判されようが、
少女たちが夢を持てることの方が大事、と考えるわけだ。
そんな男は現実にいないのに。

狭いコミュニティーでそれなりに成果を上げる、
というのは、誤解を避ける目的としては合ってはいる。
しかし、当然のことながら、
客層に限界がある。

これが好きで、わかる人しか集まらなくていい、
というのは、それがどれくらいの範囲であろうと
(たとえば「全女性に贈る」とかでも)、
僕はニッチでしかないと考える。
女にしか分からない、
腐女子にしか分からない、
大阪人にしか分からない、
大阪府茨木市在住しか分からない、
大阪府茨木市に80年代に青春を送った人しか分からない、
のように、
「そういう人」にしか伝わらない表現は、
いつか理解者をへらしていくと僕は思う。
細々と、場末のスナックのようになっていく。
同好会としてやる分には、全然楽しくていいと思う。
同人誌なんてのはその最たるものだ。
だけど、プロの表現としてやっていくには、
それは逆である。
なるべく多くの人がその世界に参加できるように、
間口を広げるべきだ。どんどん広げるべきだ。
それは、プロというのは基本的にマスコミュニケーションだからだ。
マスコミというと新聞やテレビのような、
報道機関を最近は想像してしまうけど、
そもそもマスとコミュニケーションを取ろうとするメディアは、
言葉の定義上マスコミである。
(逆はSNSだ。バカ発見器であるツィッターは、
SNSだと思ったらマスメディアだったという逆転が起こした)
そもそもビジネスモデルが、薄利多売だ。
だから、多くの人々に理解されるものを作るべきだし、
だから、多くの人々に理解される、名作が作られるのである。

名作の定義は難しいが、
大阪府茨木市の人にしか分からない作品は、
名作とは言えないだろうね。
ほとんどの人が分らないんじゃ、意味がないと僕は思う。

逆に言えば、私たちは、ほとんどの人が分かるものに、
意味を見出そうとしているのである。


これは誰向けですかとか、意味がないとぼくは思う。
マスコミの恥だと思う。

大衆はバカではない。
大衆はバカである。
どちらも真実だ。

沢山の人を集めたら、
平均IQは下がるし、共通文化も少ない。
一を聞いて十を知ることもない。
しかし、その中には、かしこい人もいて、
烏合の衆ではない。
サイレントマイノリティーだけど、
それが集団の意思決定者であることが多い。
あるいは、ある面では集団心理に押されてバカになるが、
ある面では、人は非常にかしこい面を見せる。

片面から見れば、大衆はバカであり、
片面から見れば、大衆はバカではないということだ。


さて、そのような大衆まるごとに届くものなんて、
ないから、その把握できる集団だけを狙うのが、
セグメントである。
大阪人にしか分からない表現をして、
誤解を避ける訳である。
「あほとは、人を馬鹿にしている!」
なんて東の人をおいといて、
「あほやなあ、だいすき」という表現を追求するわけだ。
だけどこれは狭いと僕は思う。


誤解を避けるもう一つの方法は、
説明を設けることである。
「大阪人にとって、
あほとは愚者ではなく、集団の人気者のことである」
という説明をつければ、上の例の意味は誤解されることはない。

これには致命的な問題があって、
説明がうまくないと、だらだらと説明が長くなることだ。

最近のCMはこの注意書きの連打のような病に陥っている。
※ただし個人差があります。
※このあとスタッフがおいしくいただきました
※CM上の演出です
※この発言は個人のものであり、弊社の意見ではありません
これらはクレーム対策でしかない。
有名な、電子レンジで猫を乾かしたら死んだので、
電子レンジには猫を入れてはいけないと書いてなかった、
と訴訟して、何億も勝ったやつだ。
これを防ぐ簡単な方法は、
「猫を電子レンジに入れるな」と※を書くことだ。

しかしこれは悪手である。
表現が但し書きだらけになる。

「オレは一生きみを幸せにする。
ただし一生とは、僕が死ぬまでで、
日本人の平均寿命から考えて、あと52年とする。
あと、幸せとは、個人の主観により若干のぶれがある」
というプロポーズは、心に響くだろうか。

私たちは、心に響くことが一番である。
「オレは一生きみをしあわせにする」
と、心に響かせたいのである。
そこに但し書きなど不要である。

暗黙にいろいろ含まれていることが、
想像力を刺激するからである。
標準語が、それぞれの内部で、
それぞれの言葉に展開されるからだ。

つまり、表現とは、暗黙こみで表現である。


説明の下手な人は、
その暗黙をうまく使えない。
書いてないと不安になって、
全部説明しなきゃという強迫観念に襲われる。
2ちゃんのまとめサイトで以前見たのだが、
ただの4コマのギャグに、
解説をつけまくって、読者の理解を助けようとしているのが、
とても面白かった。
説明過多を逆手に取った面白さだった。

「説明しないと分かってもらえない」
という恐怖は、要するに、
「伝わらないと意味がない」
「誤解されては意味がない」
という、正確性が損なわれることへの恐怖である。

しかし、それは原理的に難しいことはすでにのべた。
短くてうまい説明がみつからないなら、
僕は「誤解も表現のうちに含め」と考えている。

人はほんとうに相互理解をしてるのかな。
そこを深く考えると、
「俺の見ている赤と、この人の見ている赤は、
違うかもしれない」
というクオリアの問題に行き当たる。
「でも、赤で話が通じているのだから、問題ない」
と考えるのがその現実的解である。
ということは、
厳密には誤解があっても構わない、
と考えればいい。
おおむね伝わっていればOK、と考えるべきだ。



説明の下手な人は、
「誤解をちりひとつでも残してはいけない」
と考える、小心者である。

説明の上手な人は、
最小限理解しなければいけないところだけを切り取る。

表現の上手な人は、
説明しない。
暗黙の中に展開する想像を、駆動させるようにする。

説明過多にしたり、
説明の不要な人々にしか顧客を限定しないのは、
表現が下手な人のやることである。


どうせ、大阪弁は通じない。
博多の人にも、東北の人にも、名古屋の人にも、
それぞれがそれぞれの文化の範囲でわかるように、
想像させてそれぞれに展開させることだ。
そして、そのための表現が最小になっていることが、
切れたいい表現だということだ。

たとえば糸井重里は、平易なことばでそれをやる達人である。
「おちこんだりもしたけれど、わたしは元気です。」
という魔女の宅急便のコピーが、僕は大好きである。

そこにはたくさんの誤解がある。
上京してきた人の傷ついたことを言ってると思う人もいるし、
失恋のことを思い起こす人もいるだろう。
その誤解こみで、作品という。



つまり、誤解を恐れなければ、
含みや、広がりや、暗黙がある、
つまりは豊かな作品が生まれるのである。

豊かなのは、作品内ではなく、
受け取り手の想像力のなかで、なのである。
大阪弁や標準語が豊かなのではなく、
それぞれの博多弁や東北弁や沖縄弁が、豊かなのだ。
そこに刺激を与えるのが、
心に響くということであり、
ほんとうにいい作品だと僕は考える。

「どんな思いでこの小説を書きましたか?」
「僕の手を離れたら、この小説は皆さんのものです。
それぞれで育ててください」
というよくある問答は、このことを言っていると僕は考えている。




昨今、クレーマー対策とか言いだして、
表現が痩せている。
クレーマー? 教養や読解力のないバカのことだろ?
大学で教養を教えなくなったんだっけ?
posted by おおおかとしひこ at 15:44| Comment(4) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
素晴らしい解説ありがとうございます。勉強になります。
Posted by phan at 2017年06月26日 13:22
phanさんコメントありがとうございます。
この辺のことを書くのはとても難しいです。
お役に立てれば幸いです。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年06月26日 15:49
大岡様 ご存知だとは思いますが、最近のライト文芸のトレンドは、ご当地ものです(ご当地アニメからの派生かと思われます)。実在の地方都市を舞台にすれば、地元のマスメディアが紹介してくれる、地元の人が読んでくれる、そこから広がるとなおよろしい、という、取らぬ狸的な下心を持った戦略です。マスを相手にする考えとは逆です。とりあえず地方を舞台にして、適当な作家に書かせろ、という粗製濫造に傾いているようにも思えます。そういった物語の大半は魅力がなく、不発に終わります。一番肝心なところを軽く見てどうする、と思ってしまいます。話は逸れますが、本の帯によくある、○○氏推薦!というのは、○○氏にちゃんとお金を払っています。それも結構良い額を。読んだら面白かったから、是非、推薦させてください!というきれいな話ではありません。
Posted by すーざん at 2017年06月27日 01:35
すーざんさんコメントありがとうございます。

「ご当地もの」なんてのは言葉の綾にすぎず、
そういうのを昭和の時代から「どさ回り」と申します。
関西の芸人は、東京のテレビに出ても、
関西のラジオには出たりします。
それは地方ならみんなが見てないので、
「安心して失敗できる」のが大きいからです。
地方で受けた実験を東京に輸入したりできるし。

「失敗が成功の母」だとしたら、
沢山失敗するのは、
作家を育てるという意味ではいい戦略かと思います。

そういう遠大な戦略なき、
目の前の金を拾いに行く姑息的戦術ならば、
未来はないでしょうね(たぶんこっちでしょうが)。
その莫大な失敗から、
一人の鍛えた作家が出てきたら、
それも無駄ではないでしょう。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年06月27日 14:06
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