という仮説を立ててみる。
オリジナリティはどこから生まれるのだろう。
最初からいきなり個性的で、
神のごときオリジナリティを発揮する人はいないだろう。
いたとしても一作目で終わりである。
二作目から、人は自己模倣との闘いをしなければならない。
同じ作風がいいのか、
作風を変えたほうがいいのか、
この作風のどこが良かったのか、
どこが良くなかったのかを、
考えなければならない。
一回成功したことは、わりと人はいつまででもやるから、
受ける限りやり続けてもいいし、
別の作風を模索してもいい。
たとえば僕はクレラップでヒットを飛ばしたとき、
レトロポップ的な作風でやってみた。
あれは単純に「子供がかわいい」なんて評価されたけど、
素の子供と素のセットであんな世界を作れたとは思えない。
ビジュアルは60年代ポップ、
歌は70年代を意識した、ロボコンとかケンチャコみたいな世界、
やってるコントは僕らの子供の頃にしたようなこと。
勿論現代アレンジは加えていて、
そのアレンジ感覚が面白かったんだけど、
それがいわゆる作風だったと思うのだ。
(2013年のHD化して一発目までしかやっていない。
それ以後は異なる作風になっていることがわかるだろう)
あるいは風魔のときは、
スケバン刑事が頭のなかにあった。
予算感、同時代性、学園抗争ということを考えても、
映像化されたものの見本はスケバン刑事だろうなと。
勿論大映テレビの一連でもいい。
だから24コマ撮影したし、
フィルムルックで頑張った。
人と人の距離感は、昭和的であるべきだなと考えていた。
勿論、その現代的なアレンジとの落差も面白いだろうなと。
僕が映画監督を目指したときに、
CM業界に入ったのは、
当時岩井俊二がCMから出てきたという、
可能性を感じていたのと、
秒単価が高くて、色々な作風を沢山実験出来ると考えたからである。
お陰さまで沢山成功して沢山失敗した。
CMスタッフは滅多に公表されないけど、
コマフォトのバックナンバーなどを見れば、
僕の名前は沢山出ている。
で。
そういう作風ってのは、
膨大な試行錯誤が必要だと思うのが、
今回の本題。
たかが数本で、作風なんてあるわけがない。
オリジナルで沢山試したことが、
それなりに貯まってきて、
はじめて作風になるんじゃないかな。
それは膨大な自己模倣との闘いだ。
どれを捨ててどれを残し、
どれを新しくするかみたいなことを、
時間をかけて延々やらないと出てこない。
新人としてデビュー出来るのは、
それがそれなりに貯まってきたときだと、
僕は思う。
そうでなければ、
「どこかで見たようなもの」に過ぎず、
オリジナルなものではないからね。
ところが、
最近は、「何かに似ていれば安心して売り出せる」
と言うやつらが巾を効かせてきた。
そんなこと言ってるから、
既存のもののリミックスばかりで、
既存のものの再利用ばかりで、
既存のものを越えることが出来ないのである。
それはクリエイトではなく、イミテイトに過ぎない。
愚かだとしか言いようがないCM業界の最近の習慣に、
Vコンテというやつがある。
過去や外国のいろんな映像、
映画やPVやCMなどから集めたものを再編集して、
一本のCMのようにしてクライアントにプレゼンするやり方だ。
それは、
リミックストラックしか作ってないミュージシャンと同じだぜ?
ゲットワイルド30本入りとか、永遠に作ってりゃいいのさ。
そんなところからオリジナルは生まれない。
無限に重ね塗りした油絵の、
一番厚いところがオリジナリティだと僕は思う。
要するに、
オリジナリティを磨くには、
膨大な試行錯誤と自己模倣と自己研鑽と自己批判が、
必要なのだ。
それを怖がっていたり、めんどくさがっていては、
オリジナリティへは到達しないのだ。
何かに似ていて売れたいなら、
物真似芸人になればいい。
もう物真似するものがなくなるまで。
そして今、映画業界もCM業界も、
物真似するものがなくなろうとしているんじゃない?
デジタルコピーの安易さにかまけていて、
一番泥臭い努力をしてなかったツケが、
回ってきてるんじゃない?
どうでもいい。
あなたは、自己模倣をしながら自分の刃を磨き、
同時に、常にこれ以外の方法はあるのかと、
実験し続けることだ。
地味な積み重ねのことを、
中国語で功夫といい、読みはカンフーだ。
中国武術そのものの名称でもあり、
その王道は一番辛いことを示している。
僕の好きな言葉である。
2017年06月24日
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