閃いた!これでピリッとしなかったのが面白くなるぞ!
神が来たと思い、ストーリーを途中で改造するのは、
よくあることである。
しかしこれが改良になることもあれば、
改悪になることもある。
どっちも経験したことがあるだろう。
あれは改良だったのか改悪だったのか、
いまだに分からないこともあるだろう。
その基準はどこにあるのか?
どこで改良改悪を判断すべきだろう?
僕は、
「テーマや構造を改良するものを改良、
それ以外は改悪、
テーマや構造を変更しない改良は改良」
と考えている。
まず、何かの思いつきで、
今書いているピリッと来てない部分がピリッと来るのなら、
それは第一義的には改良だ。
しかしよく考えないといけない。
その変更点が及ぶ範囲を。
ただの思いつきで、
ストーリーの本質すら変わってしまう可能性すらある。
むしろ、それくらいのことだから、
閃いた!と雷に打たれたようになるはずだ。
表面的にはちょっとした変更なのに、
ストーリーの本質をねじ曲げる思いつきを、
うまく除去しなければならない。
たとえばガンダムにおけるミノフスキー粒子。
ファーストシリーズでは、
先の核戦争で偶然産み出されたもので、
レーダー波を拡散するため、有視界戦闘でなければならない、
という設定である。
これは、「何故有人式のロボットが肉弾戦をするのか?
自動制御の誘導ミサイルでいいのではないのか?」
という現代戦の常識に対して、
「人型ロボットのバトルが見たい」という欲求を、
科学的に叶えるための、
とてもうまい言い訳であった。
「レーダーが効かないから有視界しかない、
有視界で戦闘するなら、人間が動かしやすい人型がいい」
というシンプルで自然な三段論法を導けたのである。
ところが、続編Zでのちょっとした閃きが、
僕は改悪であると考える。
ブライトさんの「ミノフスキー粒子散布急げ!」だ。
ん?ミノフスキー粒子って人為的に作れるの?
そしてそれは散布出来るの?
ということはチャフと同じってこと?
ということは、ミノフスキー粒子は普段薄いの?
つまり、モビルスーツ戦は、ステルス戦なの?
たった一言のセリフが、
モビルスーツ戦というガンダムのメインモチーフのあり方を、
根本から変えてしまったと僕は考えている。
ガンダムのテーマは人の革新である。
ミノフスキー粒子の濃い中、
宇宙空間でモビルスーツで闘わざるを得ないような、
極限状況に置かれた人々の、
適応進化がニュータイプである、
というようなことがテーマだ。
その環境が人為的にコントロール出来てしまうのなら、
選択淘汰ではなく、
人為的進化コントロールが可能ということになってしまう。
だからか、Zでは人為的に進化させた「強化人間」というモチーフが登場してしまう。
ミノフスキー粒子散布可能という閃きは、
強化人間というデカイアイデアを連れてくる
(物理的にもデカイサイコガンダムになる)、
セットになる考え方だ。
木星帰りのシャリアブルのアイデアを進化させたアイデアのようなものでありながら、
「ニュータイプは作れる」となってしまった時点で、
それはコントロール下におかれてしまう。
80年代は超能力もの全盛である。
自然選択の結果としての超能力発現と、
人為的につくった超能力の対決は、
「アキラ」にもある構図であるから、
一見時代的なマッチを見せるように思えた。
(ちなみにXメンでも同様のことは行われている。
改造手術は、いつの世でも悪なのだね)
だが、革新と人為的進化は違う。
「人として正しい方向へむかうこと」と、
「好きな方向に他人をコントロールする」ぐらい。
前者は善意、後者は悪意だ。
そして、悪意が善意にまさった、
というのがZの結末だ。
僕は、Zガンダムがファーストガンダムの続編足り得なかったのは、
この、テーマの構造が変わってしまったからだと考えている。
モチーフが続いているのに、
テーマが変わってしまっては、
それは続編ではない。
話が途中で変わっているからである。
逆に、モチーフが変わってしまっているのに、
テーマが続いているという稀有な例に、
ちばあきおの「キャプテン」がある。
主人公(野球部キャプテン)が一年ごとに変わるという、
大胆な構成だが、
それぞれが色々あっても、野球部は続くし、
その集団の絆こそがテーマだから、
群像劇というスタイルは、テーマに最適な構造になっているわけだ。
あなたの閃きは、
表面上の変化としてツイストになり、
話を面白くするのだろうか。
それとも、
テーマの構造自体に影響してしまうのだろうか。
テーマの構造が変わってしまうとしたら、
それは以前の構造とどっちがより、
面白く、
深く、
感動できて、
かつシンプルで、
スッキリして、
皆がなるほどと腑に落ち、
出来るだけ多くの人に共有されやすいものに、
なっているだろうか。
ただ面白いかどうかなら、
人はあとに思いついた方がいいように思う傾向がある。
過去より今がかわいい。
だけど、引いた視点で
(それは作品が完結して、
何年も経ったときにどのように浸透しているか、
文脈を知らずに見ても理解できていいと思えるか、
ぐらい引いた視点で)、
どっちがいいかを判断しなければならない。
僕は、
シンプルなテーマの構造を崩してしまうのは、
改悪であると考える。
複雑なステップを踏まないと理解できない話は、
詰まらないと考える。
勿論、表面上はいくらでも複雑歓迎だけど、
テーマの構造にすとんと落ちないのなら意味はない。
そもそも、
シンプルなテーマの構造をつくってからでないと、
書き出すべきではない。
見切り発車で書きながら、
こっちのほうがよりシンプルになるかも、
なんてその場の思いつきで変更していくのは、
結局ブレブレの話を作ってしまうだろうね。
テーマの構造が深くシンプルに作られていないのなら、
書き出すべきではない。
それに自信や確信がないから、
いつまでたってもぶれるのではないだろうか。
実際のところ、
そこの芯の構造を作ることが、お話を作ることなのだ。
閃きや思いつきごときでぶれるような芯は、
もともとグラグラの弱い芯だったのかも知れない。
そういうときは二種類やり方があって、
思いつきや閃きを生かしながら泥船になる
(今はなんとかなるけど、ラストはグダグダ)、
テーマの構造に変化を加えないまま、微妙なまま進む
(今は微妙で、ラストまで来ても微妙)、
だ。
どっちにしても、微妙な作品にしかならないのだ。
つまり、
テーマの構造がしっかりとしていれば、
閃きで遊ぶことすら可能だ。
いくらでも変化球やツイストを放り込んで、
最後はテーマに着地させられる。
ゴールが明確であれば、
それ以外のことをすればするほどアイデアに見えるからである。
一塁ベースに片足をつけたまま、
片方の足で盗塁しようとしてみたり、
踊ってみて意表をつくなどをする感覚かな。
その簡単には揺らがないベースを最初に作ることが、
最も根本的なことではないだろうか。
(それには色んな思いつきを事前にやり、
それらを全て凌駕するほどの、シンプルな構造をつくるのである。
たとえばZの強化人間というアイデアは、
テーマに対して悪手だと気づけるぐらいに、
人の革新とはどういうことかを先に煮詰めるべきであった)
思いつきや閃きは、
根本を変えない範囲なら、いくらでも歓迎だ。
しかし根本を変える範囲の時、要注意だ。
逆に、
もうそれ以上思いつかないくらいにまで、
最初に根本のベースに関して色々とアイデアを出しまくったかどうかが、
「根本は揺らがない」という確信になるのではないかな。
確信がないから、閃きで良くなると思ってしまう。
そういうのを、浅はかという。
2017年06月26日
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