2017年06月26日

主観と客観と、ことば5

逆に、究極的に一人にしか向けていない表現を考えよう。
手紙である。


アナログな手紙だけでなく、
メールやラインを含めてよいとしよう。
それは、一人にしか届かない表現だ。

一人に届けばよく、
全ての人に伝わりやすい表現なんかはどうでもよく、
その人個人の理解力や知識に合わせた表現で、
さらに言うとその人と私にあった、
個人的秘密をちょいちょい入れておくと、
親密さが増す。(秘密の開示)

これは私たちの考える表現と真逆である。
私たちの扱う表現は、
なるべく多くの人に届くべきもので、
個人や特定団体固有の約束ごとに左右されない、
多くの人の平均的知性や知識に合わせた表現で、
私個人の秘密の暴露は多少親密さに影響するが、
表現そのものの受け止められ方とは関係がない。
(逆に表現そのもののはどうでもよくて、
親密さだけを求めるための芸能人ブログなどでは、
普段ではみられないプライベート=秘密の開示が重要だ。
それは言わば私生活の切り売りだ)


表現だけで独立するのか、
私とその人との関係性をそこに入れ込むか、
の違いだといってもよい。

手紙とはすなわち、
表現の独立とかどうでもよく、
その人個人の主観、
あるいは私とその人二人の主観的表現になっていればよい、
というジャンルである。

これを「表現」ということばで指し示すのは、
私たちの求めるマスへの表現と、
ごっちゃになる可能性がある。
私的文章と前者を呼んでもよいが、
対義語は公的文章でない。
いいことばがないので、
手紙とマスへの表現、という対比のままにしておく。


手紙は、ほとんど誤解がない。
その人と私のローカリティに寄っているからだ。
親しい人の手紙ほどそうだ。
(逆によく知らない人に出すラブレターは、
どこかよそよそしくなる。
親しすぎる表現でも困るだろうけど)
いわば、主観のみの表現だといってもよい。

さらに究極は、
自分のみの向けた日記などであろうが、
他者への表現ということでは、手紙を最小形に定義しよう。


昨今のCMが下らないのは、
宣伝担当が、世間へのマス表現をする覚悟がなく、
上司がOKするかどうか見ているからである。
世間よりも上司を見ている。

「○○さんはどういうだろう」と、
試写の現場でよく皆さんおっしゃる。
我々は仕事なのでニコニコしているが、
内心「こいつらバカだな」としか思っていない。

CMが、上司への手紙に成り下がっているからである。

上司を通すことなんて、
世間を通すことに比べれば、
100万倍簡単だろう。
手紙ひとつ書けばいいだろうからだ。
書けないのは、その人との関係性を構築してないから、
それはしらん。

CMは、世間を騒がせるためにある。
爆笑させたり、涙を流させたり、
驚かせたり、感心させたり、
心をポジティブにしてもらうためにある。

その表現を競い、ギリギリに詰めていく現場で、
上司への手紙としての判断しか出来ないサラリーマンばかりだから、
無難で詰まらない、
つまり見る価値もないものしか出来上がらないのだ。
見る価値もないから、芸能人を出して客寄せパンダにするしか、
方法論を知らないのである。

それは、表現者として三流だ。
我々がいかに世間に届く鋭い表現を作ったとしても、
上司の機嫌を損ねかねないという理由で、
それは現場で潰されるのである。
これは、表現への冒涜、背信行為ですらある。


もっとも、表現の素人にそこまで求めるのは苦かもしれない。
殆どの人は、100人の前でしゃべりなれていない。
精々グループ単位のなかでしか、表現をしない。
だからローカリティだけに依存している。
手紙のやり取りしかしていないからだ。

ネットの発達によって、
マスへの表現ということをちゃんと分かってない人が、
文字なり写真なりで「表現」をはじめた。
その殆どは、手紙でしかない。
かつては手紙レベルしか出来ない人は、
マスへの表現に関わる資格すらなかった。
ところが、素人がここにやってきてしまった。

そうして、手紙とマスへの表現を、
混同したまま、
CMもドラマも映画も、ダメになって行く。

「これはCM上の演出です」
はあ?これはCMに決まってるだろ。
「この映画内で語られる主張は、弊社の意見と異なることがあります」
はあ?映画内の台詞は全て公式見解でなければならんのか?

手紙だと表現を勘違いする者共が、
表現を削り、ダメなものにしていく。
その殆どはクレーム対策だろうね。
手紙を書いた本人なら責任を取れるけど、
書いてないから責任を取れない。
表現は手紙ではない。
クレームは来る。その誤解込みで表現だ。
「それはあなたの読解力がまずいのである」
あるいは、
「表現として行きすぎてました」
のどちらかに至るまで、
そのクレーマーと時間をかけて議論すればいいのに、
クレーマーはクレームつけて金ふんだくることが目的だし、
防ぐ側は「前に言いましたよね?」とPL法を盾にする。

「これは、あなた向けへの手紙ではない」
というのも逃げだ。
手紙ではないところから、表現は出発しなければならないのに。



じゃあ究極のマスへの表現って?

それが、言葉や文化に依存せずに、
色々なことをサイレントで伝えた、
チャップリンまで戻るのである。

私たちは、彼以上の表現力で書いているだろうか?

暇ならチャップリン全集を観てみるのも、
とてもいいですよ。
バスターキートンとかマルクス兄弟とかの、他の無声映画もいいかもね。
posted by おおおかとしひこ at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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