2017年07月01日

部分と全体

部分から作るか、全体から作るか。
これはいつまでたっても我々を悩ます問題で、
しかも正解はない(と思う)。

しかし確実に失敗するやり方は、
沢山経験しておくべきだ。


1. 部分から作ると、
そこはとても強い生命を持つ。
しかし全体からすると歪になっていることがある。

これはほんとうによくある。

全体から考えたその部分の役目を、
その強い部分がまっとうできない。
その強い部分が全体の計算やバランスを崩してしまう。
そこだけが強く、全体がデッサンが狂っているように感じる。

正しくは、部分を全体に合わせることだ。
しかしせっかくの強い生命を削ることは大変苦痛だし、
削ったら平板なものになって魅力を失ってしまうことが、
とてもよくある。
あの魅力は、訳のわからない部分のパワーであったのだと、
葬式会場で思うしかなくなる。


これを避けるには、全体から作るべきだということは明らかだ。
骨格やテーマや、事件と解決から作り、
強烈なシーンやキャラクターや台詞は、
全体が出来てから作って、そこにぶら下げていくべきだと。

でもなかなか上手く行かないんだよね。
僕たちの発想や閃きは、点(部分)であることが多いから。
閃きだけやって、あとの辻褄合わせだけライターに振るようなやつは、
いつまでたっても面白いものを組み上げることは出来ない。
脚本とは、そのすべてのパズルだから。

人体デッサンをやってみればわかるけど、
顔だけよく書けていても、
体がゆがんでいたり、手がおかしかったりするような感じだ。
「このポーズだとすると、顔はこう見えていない」
というときに顔だけ書き直すと、たいがい普通の絵に戻ってしまうよね。


2. 全体を考えてから執筆したのに、
リライトは部分でやってしまう。

これもとてもよくある誤りである。

第一稿が荒削りで勢いもあり、リズムも良かったのに、
ちょこちょこ矛盾や破綻を直したり、
より完成度をあげようとしてシーンを書き直していくと、
「あの第一稿の良さ」が消えてしまうことは、
ほんとによくある。

良かれと思って部分に加えた改良が、
全体をダメにする。
なぜだろう。
以前にも議論したけど、部分の和が全体ではないからである。

第一稿を書いたときは、
「ぜんぶを書こうとする」。
だから、全体に目端が効いた、
全体としてバランスやテンポのよいものを書けるのだ。

ところが、
「ここだけ直して、あとはそのままにしておこう」
と思うと、まず上手く行かない。
部分の和が全体ではないからである。

ある部分AをBに変えたときは、
Aへの伏線や前提、
Aを伏線や前提にしたものの、
両方を直さなくてはならない。
Aへの伏線や前提を全部削り、それをBへの伏線や前提にし、
Aを伏線や前提にしたものを削り、それをBを伏線や前提にしたものに、
しなければならない。
そのABが同じようにできるかは殆ど無理だ。
だから大抵大手術になり、
全体のバランスを保ったまま直すのは相当難しい。

たった一行台詞を足したり削ったりするだけでも、
全体が大きく変わってしまうことがある。

(カオス理論をやっていれば、
ストーリーのリライトでのカオス的な振る舞いや、
初期値敏感性が理解できるかも知れないが、
あまりいないだろうから省略)


あの第一稿を書いたときのような、
「ぜんぶを書いている」感じで、
部分を直すべきだというのが、
今のところの僕の経験則だ。


またまた人体デッサンにたとえると、
右手だけ気に入らなくて、それを直すことに近い。
右手をプラモのパーツのように取り替えて書き直してもダメだ。
右手が違う角度になれば服のしわも変わるし、
目線も変わるし、重心も変わるからである。
光の当たり方や力の方向すら変わってしまう。

部分だけ書き直しても、決して最初に全体をとらえていたような、
「重心や力の流れや光の当たり方を見ながら書いていくこと」
が出来ないのだ。
だから、書き直すときは、
いつも「全体をとらえて書く」ことが必要だと思う。

リライトがたいていうまく行かないのは、
こうやって近視眼になってしまっているからではないか。


3. 全体はよく出来ているのに、部分が魅力がない。

2の逆だ。
全体は矛盾なく、首尾一貫しているのに、
魂を奪う強烈さがない。

教科書通りのことをやっても、芸術にはならない。
デッサンが出来ていても、絵として素晴らしいかは別だ。
必要条件だ、ならまだいいけど、必要条件ですらないからね。
(にもかかわらず、デッサンの狂いが気になるものは、
どんなものでもダメに見える)

「破綻しているのだが、ストーリーとして魅力的でしょうがない」
というものと、
「破綻していて、部分は面白くても、トータルで全然面白くない」
というものは、
この3の逆である。

神はディテールに宿る。
全体のバランスには宿らない。
それは、我々が全体を見ずに、ディテールを鑑賞しているからだろう。



とりあえず、失敗パターンを上げてみた。
こういうことを死ぬほど経験しないと、教科書通りのつくりかた、
すなわち、
全体を先に構築してしっかりした背骨を固定し、
部分をそれにぶら下げ、
ディテールに神を宿し、
それらが混然一体となって部分と全体が同時に機能するものに仕上げる、
ということが出来ないだろう。

理想的作り方だけど、なかなかうまいこと行かないよね。
しかし、それが一番の王道だ。
posted by おおおかとしひこ at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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