どんな習い事にも通ずるかも知れないけど。
いいとされるメソッドは、
沢山の失敗から編み出されたものだ。
だから、結果だけをマスターしても、
実は意味がない。
九九にたとえてみよう。
掛け算をやるとき、九九がないことを想像してみる。
最初は足し算を何回かやって求めるだろう。
そのうち、9×9のテーブルを先に作っておいて、
探すという方法にたどり着く。
(一々計算しなきゃならないという失敗をしないと気づかない)
そのテーブルを作る途中に、
A×BとB×Aが同じであることに気づき、
テーブルは半分でいいと気づくだろう。
(9×9のテーブルを全部作る失敗をしないと気づかない)
しかしそのうち、暗記したやつと、
テーブルを見なきゃいけないやつに分かれてくる。
で、そろそろ思うのだ。
「歌にすれば全部覚えられるかも」と。
(これは、暗記したやつと暗記してないやつの、
ばらつきという失敗がないと気づかない)
あるいは、テーブルをなくした失敗をしたかもしれない。
丸暗記に至るには、
テーブルで失敗しないと気づかない。
最初から九九のメソッドを、
失敗もしないうちに学ばされる日本人は、
このような失敗を経験したことがない。
しかし。
九九を丸暗記している民族は、
地球広しといえども、
日本人とインド人だけである。
(違ったらすいません)
逆にこれ以外の民族は、
まだ毎日、掛け算のたびに失敗をしている。
それだけ失敗しても九九に至らない理由は、
数の発音の音の数が関係している。
しく36、など、日本語には一音で数詞を表せる機能や、
複数の数字の言い方があることが、関係していると思う。
「よん」と言ったり「し」と言ったりね。
あるいは撥音便(にに「ん」がし)や促音便(は「っ」ぱ64)によって、
節を調整する機能もこれを助けている。
おそらく、ほとんどの外国語にこの機能はない。
だから短く(暗記の範囲内に入れる)、かつ節回しのある、
歌が作れなかったのだろう。
逆に言うと、日本語話者ならば、
たとえ九九がなくても、
上のような失敗を経験したら、
誰だって思いつくはずだ。
「これ、語呂合わせで覚えられんじゃね?」と。
語呂合わせは、日本語特有の機能だ。
理由は上に書いたことで十分だろう。
電話番号を唄で覚えるのは、日本人特有かもね。
あるいは、ポケベル時代、「3341」で「さみしい」と送れるのは、
日本人だけだろう。
で、本題。
僕がここに飽きもせず書いている、
ストーリーづくりのあれこれは、
僕の膨大な失敗から編み出されたメソッドだということだ。
勿論、それを理解して、使いこなせるといいと思って、
よかれと思って書き続けている。
でも僕がやってほしいのは、
「大岡のいうことはほんとだろうか」と、
試してほしいということだ。
「これはこういうものらしいので、真似すればOK」ではなくて、
「これも試して、あれも試したが、全て失敗だった。
この方法論は、これらをカバーする方法なのである」
という風な理解をしてほしいのである。
試すのは簡単だ。実験をしてみればいい。
習作という行為である。
「あれはこうかも知れない」と思いついたことを、
実際に作ってみて、失敗や成功を経験するのである。
(そして99%の実験は失敗するのである)
これもあれも失敗した、という経験があって、
はじめて、先行する経験者のことばがわかるというものだ。
ざっくり言うと、親になって初めて親の気持ちがわかる、
みたいなことか。
と、いうことで、座学も大事だけど、
実戦経験や実験作品はもっと大事だ。
そこから抽出して座学にしないやつは、だめだ。
座学と実戦は両輪だ。
実戦はブログではできない。
(なんとかしようとして、添削スペシャルはやっているけど)
ここでは座学のみだ。
ということで、失敗を自分で経験して、
学んでいくといい。
僕の失敗談はいくつか書いている。
飲みにいくともっと聞けるだろうね。
創業者が作った会社を、
なぜ二代目や三代目が潰してしまうのだろう。
失敗の経験を、継いでいないからではないかな。
成功したメソッドが、
どのような失敗から出来上がったのか分からないと、
アレンジも出来ないよね。
だから環境の変動に呑まれて、
あるいはメソッド自体が上手く継がれずに、
腐って倒れて行くのだろう。
たとえばインドには、99×99の九九があるらしい。
九九を自分で作っていれば拡張できるかもだ。
自分で作ってないなら、困って終わりだろう。
失敗をしよう。
そこから僕の方法論以外のいい方法、
もっとシンプルな解を、
見つけることもあるだろうし、
そうあってほしい。
「やり方」とは、そのようなものだと思う。
2017年07月02日
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