わたしの仕事が難しくて理解できない、
バカな上司が判子を押しやすくするため、
と、会社論的に考えてみよう。
ていうか、
実際のハリウッドでのログラインは、
本当にそのために使う。
ハリウッドではプロデューサーはシナリオを読まないらしい。
読む人はリーダー(reader)と呼ばれる専門職で、
その専門職の簡潔なレポートを見て、
何億ドルものビジネスをするわけだ。
えっ。大丈夫なんそれ。
リーダーreaderの質、信用できんの?
だからか、ハリウッドも、
既に成功しているビジネスを輸入すること、
すなわち原作ものが幅を効かせる。
投資を得やすいのもそれだ。
リーダーreaderが目利きかどうかは、
それまでの実績で決まる。
シナリオを読めない人からすれば、
それは預言者だ。
当たる占い師が、いい/わるいを判断する世界だ。
そんなバカな。
そんな何億ドルものリスクのあるビジネスに、
占い師に任せるって?
たぶん、その通りだ。
だから、ログラインだけ見てプロデューサーは決める。
だから、ログラインから金の匂いをかぎ取る。
ログラインで見ることは、以下の情報だ。
1. マーケット
ジャンルや雰囲気が分かれば、
誰向けということが分かり、マーケットの観客数が分かる。
中ヒットなら○億ドル、大ヒットなら○億ドルと、
市場規模を見積もれる。
つまり、その想定規模に対して、
監督や主演の座組の質で、勝負をかけるか抑えに入るかを決める。
2. それが過去にあったものにどれだけ似てるか/新鮮か
過去にあった何かに似ていれば、市場規模を見積もれる。
以下略。
全く似たようなものではヒットしない。
だから不確定要素である新鮮さが必要。
つまり。
私たちの懸命に作り上げる、
脚本のオリジナリティは、
2の新鮮さという、僅かな要素に圧縮されてしまう。
ログラインは一行から数行だ。
そこから1と2が分析され、
数行の中のほんの僅かな要素に、
我々の命が含まれるに過ぎない。
ハリウッドのプロデューサーにとってのログラインは、
そのようなものだ。(あくまで伝聞)
しかもプロデューサーはシナリオを読まず、
新鮮かどうかを判断する占い師の意見を参考にするだけだ。
(ほんとかなあ。でも話を聞く限り、
ハリウッドのプロデューサーって会社員みたいなんだよなあ)
にも関わらず、
プロデューサーは、「新鮮な企画を」とか言うんだぜ。
日本のプロデューサーは、
もう少し良心的?である。
ちゃんとホンを読む。
(いや、礼儀上読むだけで、
作品性まで読みきれる人はほとんどいなくて、
1と2の要素を検索している作業かもだ。
今まで付き合ってきたプロデューサーを見る限り)
つまり、プロデューサーが脚本を読むということは、
「それは芸術として素晴らしい作品か」
「映画史においてどのような位置を占めるか」
を読むのではなく、
「これはどれくらいの金を生むのか」を読むのだ。
つまりプロデューサーの読解力の第一は、
マーケットが見えるか、
他に似た成功例を引けるか、
ということなのだ。
プロデューサーは私たちの敵ではない。
なんて私たちを理解しないバカなんだ、
とこれまで書いたことから非難しているように見えるが、
そうではない。
彼らは味方であるが、人種(職種)が違っていて、
違う人種(職種)と組むのがビジネスだということだ。
彼らは友達でも師匠でも指導者でもない。
違う人種(職種)の、違う面からあなたの作品を実現しようとする人だ、
ということ。
僕はそんなこと知らないままに、
映画プロデューサーと話をしてしまった。
単なる「映画好きの仲間」として、
「あれはこうしたほうがいい」「あれは良かった」
という話が出来るのだと思っていた。
勿論、映画が好きだからその仕事をしているわけで、
映画トークを嫌いな人はいない。
だが、作品論と彼らのメイン仕事は違う、
ということを我々は理解するべきだ。
彼らは映画サークルの先輩ではなく、
人種(職種)の違う、別会社の人だということ。
(逆に僕が相性の良かったプロデューサーは、
かつて監督を目指したが挫折して、
監督のやることを実現しようと動いてくれる、
監督的プロデューサーであった。
監督から見ればありがたい存在であるが、
商売人として優秀かは、そのベクトルと違うところのはずだ)
あまり出来ない日本のプロデューサーと付き合っていた時、
彼が「これはどんな人たちが見に来ますか?」とか、
「これは何に似てる映画ですか?」と聞いてきた。
何にも似てないからオリジナルだろ、失礼な奴だな、と思っていて、
内容が分かれば、観客層も見えるだろ、と内心あほかと思っていた。
彼は、作品論がしたかったのではなく、
上司から聞かれたときにこたえるための資料作りをしようとしていたのである。
つまり、ログラインとは、彼が上司に報告するためのものなのだ。
なぜなら、彼の上司が、
マーケットを把握し、ヒットを見積もる責任者であるからだ。
その上司が脚本を読まない前提で話すのが、
当たり前だと僕はしらなかった。
ということで、
ログラインはなんのために書くのか。
脚本を読む必要のないまま、
ビジネスの規模を見積もるために書くのである。
逆に、それだけの荒い精度でしか投資やビジネスは動いていない。
ざっくりすぎるということだ。
だから内容がなくてガワだけなのを却下できない。
逆に、内容は脚本家と監督に一任されていて、
むしろプロデューサーは、任せる、職業が別なのだから、
という立場なのである。
だからプロデューサーのいうことを信用して、
内容を改訂したとしても、彼らは責任を取らない。
責任は全て脚本家または監督に帰属してしまう。
内容がだめなことに、プロデューサーは責任を負わない。
ガワがビジネスになることにしか、責任を負わない、
と極論することができる。
繰り返すが、これはプロデューサーと対立しようということではない。
彼らは、別の職種の、別の人種だということである。
彼らが判断できるのは、そのガワが今ビジネスになるかどうかだけであり、
映画史に残るかどうか、どうすれば芸術たり得るか、
ではないのである。
脚本理論のひとつも分らずに彼らは仕事をしている、
ということを想像すること。
外国人と付き合うのだ、と覚悟すれば、
内容のことは、自分ひとりだけで判断し、決断しなければならないのである。
これが、プロデューサーが脚本をダメにして、
儲け主義で内容のない映画が連発される理由であり、
内容のある映画がなかなか作られない理由である。
これじゃダメだと危惧するプロデューサーももちろんいて、
そう思う人たちが映画賞をつくり、
なんとか業界を盛り立てていこうとしてはいる。
しかしそれで賞を取るのは、
あくまですでに出来上がったものしかない。
「あたらしくあたらしいものをつくること」に関しては、
何もできないのである。
ということで、
私たちが出来ることは、
彼らが読解したがることについて、
ログラインで答えてあげることである。
商業主義vs作品主義とか、古い対立構造を持ち出すつもりはない。
商業的に成功し、かつ作品的に成功しなければならないということだ。
今、製作費が出るのは商業主義的しかない、
という時代の流れだけなのだ。
そりゃそうだよね。脚本読まずにログラインしかみないんだからね。
プロデューサーと作品の接点は、ログラインしかない。
そして彼らは、読み取りたいことがある。
それを理解しよう。
2017年07月03日
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