創作のひとつの目的は、
誰かにわかってほしいこと、理解されたいこと、
好かれたいこと、尊敬してほしいこと、
などの隠れた欲望だ。
大体リア充は創作などしない。
そうでない人が、膨大な孤独の時間をつかう。
しかし覚えてほしいことは、
その隠れた目的は、満たされないと覚悟するべきだということ。
逆に、
「理解された」「分かってくれた」「好かれる」
という状態はどういう状態かをイメージしてみよう。
私の孤独で誰にも理解されない感情を、
「分かったよ!100%分かった!」
私の疎外された感覚を、
「理解した!100%認めた!」
非リア充な私を、
「抱いて!好き!」
そんなわけないよね。
さらに逆に考える。
あなたが、物語を書く人のことを、
「理解した」「好き」になったことある?
その人のことは、ある程度分かったり好きにはなるけれど、
100%理解するのは難しいよね。
物凄く好きでも、高橋留美子を抱けるかというと、
「いや、その好きじゃない」って思うよね。
(高橋先生すいません、好きです)
じゃ何を理解して何を好きになっているか、
見る側の自分から見れば、
「理解したり認めたり好きになるのは、
物語そのものであって作者ではない」
ということだよね?
娘さんが好きだからといって、親に恋することはない。
それとこれは、別である。
三段論法的に、
あなたの作品は愛され、理解され、認められ、好かれるが、
あなた自身が理解されて抱かれたりすることはない。
全くないかどうかでいうと、まああるかも知れない。
あのあれを作った人だ、スゴいとか尊敬する、
とかは言われる。
でも、あなたの切望する、
疎外感やコンプレックスが晴れていくことは、
ほとんど起こらない。
また、たかが一本でリア充になってしまったら、
何より次の作品が作れなくなるよね。
作家というのは、
永遠に認められず、理解されず、好かれない。
あなたの夢想するゴールは、やってこない。
その代わり、誰もが、
「作中の人物の行動や発言」について、
100%理解し、100%認め、100%愛する。
たとえ作家がいなくなっても。
作家とはそういうことだ。
面白いストーリーを書いたので、
彼女もできて、宝くじも当たって、家もたてて、
コンプレックスの塊のようだった僕が、
ウェーイ充になれました!人生成功です!
というのは、ヘンテコなネックレスの広告なみに、
怪しいということである。
つまりゴールは、
あなたの成功ではなく、
同じ好きなものを共有する人を、増やすことだ。
そこに作者がいなくても、認めることや理解することは、
継続し続ける。
源氏物語は千年やっている。
紫式部の孤独や疎外感やコンプレックスには、
露ほども興味ないのに。
あなたは理解されたいだろう。
認められたいだろう。
好かれたいし尊敬されたいだろう。
残念ながら、それを目的にしても実現しない。
そうなりたかったら、スターや社長になったほうがいいかもだ。
(スターや社長も、そうでないかも知れない)
僕が作家という人生を歩みたかったのは、
正直認められたいという気持ちもあったし、
尊敬されたいという気持ちもあった。
だけど、どこまで行ってもそれは平行線だし、
その欲望は作品世界に害悪にしかならない
(たとえばメアリースーを誘発する)
ということが分かってきた。
認められたり、理解されたり、好かれたりするのは、
身近な人であるべきだ。
もっともそれがいないから、膨大なる孤独の時間を使うのだけど。
原動力となる心のループと、
結果が違う職業。
それが作家である、と認識しておこう。
2017年07月05日
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