前回の議論を乱暴に要約すると、
「読まない人に読んでない状態で分析させるため」
ということになるわけである。
そんな馬鹿な。でもサマリーってそういうことかもしれない。
私たちとそうでない人の間の唯一の架け橋が、
その一行だということだ。
一方、私たちにとってのログラインをみておこう。
書き手にとってのログラインは、灯台のような役割をする。
我々はいつも迷う。
何を書いていいかわからなくなり、
間違った方向へいくこともあり、
最終目的や、そもそも何のためにこれをはじめたのか、
すぐに見失ってしまう。
目の前のことで全体を見失うことは、
人生でもよくあることだ。
いわんや、執筆においておや。
そういうとき、
いつもログラインを見て軌道修正する。
ログラインが長いと、
「これは一体なんなのか」をすぐにイメージできない。
だから簡潔に本質を書いておくべきだ。
そして、もっと大事なことは、
私たちは、簡単には、
自分のやっていることの本質なんて、
すぐにずばりと言えないということである。
「私はいったい何を書いているのか」を、
書いている途中から本質的にとらえられる人は、
少ないと僕は思う。
それは、「あなたの人生とは本質的になんですか?」
と、人生半ばの人に質問することとおなじだ。
老人にこの質問をすればいいのだろうか。
いや、老人とて、
「終わってみるまでその質問は失礼だろう」
と思うに違いない。
半ばの状態で、
完結したときににじみでる本質を正確にとらえられたら、
それは一種の預言者というものだ。
だから、ログラインは、
何回も書き直してよい、と僕は推奨する。
書く前に想像していること。
書く途中に本質的な事が変わってきたかも知れないので、
こういうものになっているのではないか、と思うこと。
書き終えて、こういうものだったのではないか、と思うこと。
おそらく、すべてが違うはずだ。
実はそれが大事だと僕は考えている。
それは、観客が思う、
「見ている最中のリアルタイムの反応」
と同じだからと思うからだ。
だから、執筆途中に、
何回もログラインを書き直すのは、
とてもいいことだ。
二転三転している、面白い可能性がある。
(逆に、ぶれまくっている詰まらない話の可能性もある)
できれば、その記録を取っておくべきだと思う。
そうすれば、
「一体この話はどういうことなのだろう」
と初見の人の反応を記録しておけるからである。
「この話の本質はなんだろう?」
と考えるのは、作者だけではない。
その話を楽しむ、すべてのひとが、
鑑賞中に常に考えていることだ。
だから、
第一印象と、途中の印象と、
見終えた後に、なるほど、この作品の本質はこういうことだったのか、
と納得することの記録は、
かなり貴重だと僕は思う。
さて。
問題は、
ぶれているダメな作品なのか、
二転三転する面白い作品なのか、
ということではないか。
それは、明確な方向性の提示があるか、
明確な方向転換の提示があるか、
それに、乗れるか、
ということがふたつを分けると思う。
ぶれぶれの詰まらない話は、
いつまで経っても方向性が見えて来ず、
いつの間にか方向性が変わっているものだ。
これまで積み上げたものがあったとしても、
どこかで迷路に入り、
方向性や本質が、良く分からなくなってしまったものを、
ぶれぶれという。
明確にそういうことか、と納得し、
その方向転換に、そう来たか、面白いぞ、
というのが、面白い話だ。
あれはどうなったんだっけ?
あれ言ってたのは無しになったの?
ああなると思ったのが、いつまで経っても言及されないんだけど、
なんてのは、ぶれぶれという。
面白い話とは、
「こういう本質の話かもしれない」
と明確に予感でき、期待し、
「こういう本質の話になってきたぞ」
と最初の予感や期待から、
正しい方向に発展し、
「ああ、こういう本質であったのか。
最初から最後まで、一貫してこうだったのだな」
と深く納得する話を言う。
だから、ときどきのログラインは、
大きく、上手に、変わるものである。
常にどこを切っても金太郎飴のように同じログラインであるならば、
それは詰まらない話の可能性すらある。
第一稿を書き終えた時、
最後にこれをまとめるべきだ。
この話の本質は?と。
人は最後の印象が強いため、
最後の本質を言いたくなる。
ドラマ風魔でいえば、最終回間際の盛り上がりについて言いたくなるし、
「いけちゃんとぼく」を見れば、
ラストのどんでんについて言いたくなるのは当然である。
しかし、それは本質の一部でしかない。
最初にこうだと思わせること、
途中でこうだと思わせること、
が抜け落ちているからだ。
たとえばドラマ風魔は、
「学園にハチャメチャ忍者がやってきた!」
というのが最初の本質だし、
「風魔一族vs夜叉一族の、
表では試合、裏では死合い」
というのが途中の本質だし、
「人の心に温かい風を吹かせる」
というのがラストの本質だ。
この変化を楽しむことが、
ドラマ風魔を楽しむことである。
(もちろん、個性豊かなキャラの、
それぞれのドラマも見ごたえがある)
だから、
ドラマ風魔は、
「暖かい風」なのだ、などと、
見る前の人に言ってもしょうがないのだ。
じゃあ、部分でない本質って?
俯瞰に立てるかどうか、ということ。
見てない人にも、
見た人にも、
興味のある人にも、
ない人にも、
現在の文脈の人にも、
十年百年たったあとの人にも、
日本のローカルな人にも、
全国の人にも外人にも、
ひとしく分かる、
一行を書け、
ということなのだ。
それは、私の人生を一行にまとめろ、
というくらいに難しい。
だから、そこまで深く考えてしまっては、
いつまでたっても本質にたどりつけない。
なので、大岡式には、
Aな主人公が、Bに出会い、
Cする話
とみっつの要素で書くととらえやすい、
ということにしているわけである。
Aがテーマの裏(渇きや不足)、
Bがイコンになる異物的なもの、
Cがお楽しみポイント、
となれば、ほぼ三幕構成を網羅するからだ。
最初に思う本質的な事は、
AとBに。
途中で思う本質的な事は、
Cに。
最後に思うことは、Aの裏に。
勿論、そういう風に書けていれば、の話だけど。
逆に言えば、大岡式には、
映画のストーリーはこう書くべきだ、
と規定していることになる。
もちろん、この型にはめる必要もない。
それ以上に面白ければ。
さて、
かように本質を見極め、それを凝縮することは困難である。
しかも、書く人種でない、
読まずに枠組みだけで商売する人が、
あなたのとらえる本質と違う部分を、
ログラインから読み取ろうとする。
ログラインをうまく書くということは、
それだけの困難を突破しないとだめだということだ。
難しいね。
だから、なかなかうまく行かないんだ。
しかし嘆いていてもはじまらない。
越えるべきハードルは提示した。
あとは躓かないようにちゃんとやることだ。
2017年07月04日
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