おじさんはね、頑張ってる女子に弱い。
すぐ好きになっちゃう。
おばさんはその逆。頑張ってる男子に弱い。
すぐ好きになっちゃう。
だから、アイドルやジャニーズは物凄いビジネスになる。
物語は?
仮に、頑張らない人々を描くとしよう。
これは魅力的だろうか?
彼らが魅力的に見えるのは、
周囲が頑張りすぎているときである。
80年代には、のほほんとやる吟遊詩人のような生き方
(当時の言葉でシラケ)が、
魅力的に見えたことがあった。
中流社会の完成は一種の社会主義で、
高度成長のモーレツへの反動があったからだ。
90年代はニヒルが流行った。
バブルが崩壊して、成長神話が崩れ、
成長ということに皆が懐疑的になったからだ。
今はどうだろう。
シュリンクし続ける世界で、頑張ることに意味はあるかな?
それについては分からない。
だけど頑張るのが、まだ未熟な、
きらきらした美少女や美少年なら、
話は違ってくる。
おじさんやおばさんが、沢山反応する。
若者はどうだろ。
実のところ今若者はマーケットの主役に躍り出ていない。
次世代は弱い社会が現代日本だ。
層として、おじさんおばさんに負けている。
若者は若者で、強烈に魅力的な何かに夢中かも知れない。
僕にはほとんどがメアリースーに見えてしまうが、
潮流としてはよく分からないのが正直なところ。
ちなみに若者は、最強の何かが好きだ。
まだ世界をよくわかっていないから、
「ある日突然普通のおれが最強候補に?!」というドラマが好きである。
それは現実にはあり得ない。
あり得ないから好きなのかも知れない。
おじさんやおばさんはそんなことなかったと、
厳しい現実を知ってきたので、
自分達の世代が主人公なものよりも、
きらきらした未熟な美少女美少女が、
厳しい現実と関係ない世界で頑張る姿を確認して、
心の何かを溶かして行く。
物語は何を与えるのか?
元気や勇気を、直接与えるのではない。
間接的に与える。
「あの子があそこで頑張れたのを見れたから、
今この現実世界でも頑張れる」
という間接的な構造だ。
AKBのビジネスがなぜうまくいったかは、
その頑張りの舞台裏を全て見せたからである。
表舞台は実はどうでもよくて、
舞台裏こそが商品だった。
しかし、その舞台裏も「舞台裏の全部ではない」
ことが明らかになり(ファンや権力者と色々ある)、
そのきらきらは、とうに汚されている。
それでもそこに別の子のきらきらがあるかぎり、
ファンは金を突っ込むだろう。
全く同じ構造が、
若手俳優の演劇ビジネスだ。
テニミュあたりからスタートしたものだ。
円盤は、舞台裏(メイキングと呼ばれるもの)込みで円盤である。
もし公演のみの表舞台だけなら、
ここまで円盤は売れない。
きらきらした美少年の、舞台裏の頑張りがないからだ。
これこそが主食なのだから。
ちなみに、こういうビジネスでは、
メンバーに女子を入れないのが暗黙のルールである。
その女子と仲良くしているシーンを撮ったり、
その女子とやっちゃったスキャンダルがあれば、
AKBと同じく、汚れてしまうからである。
部活を思い出せばわかるけど、
若い男女が集まれば、修羅場のようなやったやらないが、
あるものだ。
だから恋愛禁止は、きらきらを保つために、
正しいやり方だ。
きらきらした美少女美少年を、客のために保つために。
物語ではどうだろう。
きらきらした美少年と美少女は、
最後にはくっつくことになっている。
頑張りは報われ、
ハッピーエンドで安心してほしいからだ。
きらきらした美少女が汚い男にやり捨てられて歪んだバッドエンドになったり、
きらきらした美少年がヤリマンビッチに捨てられたりする話は、
私たちのきらきらへの願望を汚すので、
あまり喜ばれない。
自虐的に同性の主人公を苛めていく方法論は、
昔からある。
その場合、主人公はきらきらしていない。
(「汚れた血」の、ジュリエットビノシュが最高のNTRでねえ…)
つまり、
常に、きらきらは私にはなく、他人にあるということ。
きらきらした美少女美少年の頑張りとは、
あくまで他人の物語、という注釈つきであるということだ。
ということで、
きらきらした美少年、きらきらした美少女が、
頑張って成功するさまを、
夢一杯に、しかもリアルから離れすぎず書こう。
まあ、一番難しいよね。
きらきらは、ビジュアルのことではない。
(最終的にはビジュアルのいい役者が演じるが)
たぶん、思いとか考え方のことだ。
純粋ゆえに失敗し、
純粋ゆえに成功する、
そんな話をみんな見たいんじゃないのかな。
だって、私たちの中にも、かつてのきらきらは死んでないもの。
2017年07月09日
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