2017年07月09日

ストーリーは、具体的でなければならない

ラブストーリーを書こう、
と思うのはいい。
しかし「ラブストーリー」はまだ抽象であり、
具体ではない。


「男が女に出会って恋をする話を書こう」
なら具体的だろうか。
まだ抽象だな。
どんな男が、どんな女に、
どういう出会い方をして、
どういう恋になるか、
それが具体だ。

たとえば、
「忍者が主君の姫に一目惚れする」
のような具体が必要だ。(ドラマ風魔)
「男に興味のなかった女が、
転校生のワルが気になってしょうがない」でもいい。
(昔によくあった少女漫画テンプレ。
今のテンプレは、追いかけてないのでよく知らない)

とにかく具体にすることだ。
それは場面でも同様だ。
「告白が成功する」なら抽象だ。
どんな言葉を使い、どのような心の動き方をしたのか、
具体がないからだ。

「好きなところを10個言う、というゲームで、
最後に彼女の、『まだなれてないけど理想の姿』を言い、
彼女をどれだけ理解しているかを示す」
(ドラマ風魔)
なら具体的だ。
勿論、どんな10個を言うかが、
さらに具体的なキモになってくる。
勿論これは単独の場面としては機能してなくて、
冒頭シーンや、これまでの流れが全部あって、
という具体の積み重ねがあるのだが。

「ケンカする場面」ではまだ抽象だ。
どんなディテールの何に切れたのか、
それまでの思いのすれ違いの具体が必要だ。

「仲直りする」「嫉妬する」「離ればなれになる」
も同じく。
どういう具体があるかが、大事である。

さて、
気を付けるべきことは、
これらの具体をどう選ぶかということについては、
「センスしかない」
という見も蓋もないのがほんとうだ。
脚本理論が抽象的になるのは、このためだ。

「なぜ小次郎は彼女のいいところを10個言ったのか?
『プレゼントをあげる』でも良かったのではないか?」
と、具体に関する質問を考えても、
僕はしょうがないとしか答えられない。
「そのほうがセンスがいいと思ったから」
というのが正直な答えだ。

しかし、「ここで告白が成功する」を、
「ここで告白が失敗する」に変えるのはどうか?
という抽象的な質問には答えられる。
それは、プロットの話だからだ。

勿論、プロットにも抽象と具体の階層があって、
ラブストーリーの最も抽象度の高いプロットは、
「愛が成就する(または失敗する)」であり、
もう少し具体度をあげれば、
「男女が出会い恋をして結果が出る」だろう。
さらに具体をあげてゆき、
本格的なプロットになっていくわけである。

そんなこと言ってしまえば、
すべてのミステリーは、
「殺人事件が解決する」であり、
「凄腕の探偵が、絶対不可能なトリックを破る」
と書くことが出来てしまう。
どんなトリックか、どんな解明かという具体が、
ミステリーの醍醐味だというのにね。

つまり、神は具体に宿る。
神はディテールに宿るというが、
ここまでのことを意味する言葉とは思えないので、
具体に宿る、としてみた。
宿る神の名は、オリジナリティーだ。


無限のラブストーリー、
無限のミステリーがある。
それはどれも、
「恋と結末」「殺人と解決」という抽象でしかなく、
それはオリジナリティーではない。
(人類ではじめてこれを書けばオリジナリティーだけど)
そういうことではなく、
どういう具体的なエピソードを作れたかが、
オリジナリティーに直結してゆく。

「愛を告白する」という抽象を、
「殴る」という他にやっていない具体で達成できれば、
それはオリジナリティーのある話になるだろう。
もう誰かがやってる可能性はあるけど。


具体はセンスだ。
抽象は理論だ。
神は具体に宿るけれど、
本質を決めるのは抽象だったりする。

蒸し返すようだけど、シンゴジラは、
具体(のいくつか)は素晴らしい。
しかし全体がよくない。
そして最も根幹になるはずの、主人公の物語が希薄である。
その抽象構造の歪さが、
物語として落第なところだ。

東宝オリジナルゴジラは、そこが良くできていた。
具体は今なら古いセンスかも知れないが。
(古い名作を見るときに気を付けることは、
具体でなく抽象を見ることである。
具体というセンスは古びて行く。
勿論、同時代的にこのセンスは滑っていた、
なんて証言がないと、全部センス良かったのだろう、
と推測してしまいがちだけど)


で。
シナリオに書くべきことは、
どこまで行っても具体だ。
センスを爆発させればいい。

しかし、抽象的にどうなのか、
同時に考えていないと、
ただのセンスの羅列になり、行くべき所が見えなくなる。

そのための抽象的な道具が、
動機や目的、事件、サブプロット、
三幕構造、テーマ、
などになるわけだ。


ストーリーは常に具体だ。
プロットが出来ていても実際に書けないのは、
具体のセンスがないか、
プロットの抽象度が高すぎて、
具体の階層にまだ降りてきていないからかも知れない。
(たとえばプロットに「告白が成功する」と書いたって、
その具体場面を作ってなきゃ、書けやしない)

あるいは、プロットが作るのが下手なのだとしたら、
具体に拘りすぎて、抽象化が下手なのかもしれない。

具体と抽象を行き来しながら、
最終的には具体の連鎖を紡ぐことが、
出来るかどうかである。


なるべく具体的に書いてみたけど、
抽象的ですいません。
posted by おおおかとしひこ at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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