2017年07月10日

デジタルは人を幸せにしない:デジカメのモニタ

ほぼ日の今日の糸井さんの話が面白かったので。
(明日の朝には消えちゃいます)

フィルムカメラをはじめて気づいたことは、
デジカメのような「モニタを見て確認する」がなくて、
どうなるか分からないところに突撃する面白さ、
というのがあること、
と僕は要約する。


これは昨今の映画への投資全てに当てはまる。

少なくとも20年前までは、
映画は10本セットで作るものだと言われていた。
9本は外れて1本当たれば、
それで回収できると。

ところが最近主流の製作委員会方式は、
1本で回収する方式のビジネスだ。
リクープ出来るという、
確実な未来を見据えてのビジネスである。

だからガチガチに固めたものしかやらない。
それが邦画を不自由にし、
既にヒットしたものしか映画化しないという硬直化を招いている。

そしてそのビジネスの目論見が正しくないことは、
糞みたいな実写化作品の塁塁たる死骸の群れを見れば明らかだ。


デジカメのモニタは、
確実な未来を写す。
だから安心。

私たち人類は、未来が見えない不安と闘ってきた。
占星術や科学の発展は、
未来を確実に予言するために発展したのだ。
で、確実な予言はひとつあって、
私たちは死ぬということ。(メメントモリ)
未来が見えない不安が明らかになることはない。
私たちは死んだらどうなるか、永遠に分からないからだ。

デジカメのモニタは確実な未来を写す。安心。
フィルムカメラは、上がるまでどうか、最終的には分からない。
それが不安と考えるか、
オラワクワクすっぞと考えるかは、
人次第なのかも知れない。

ということで、
びびらずに楽しめる人、どこかにいないかね。

ついでにいうと、
「自分は不安でもいいのですが、
○○さんが不安に感じるといけないので、
安全でいきましょう」という人ではなくて、
「○○さんは私が説得します」
あるいは「○○さんに話して了解取ってきました」
という人が、ほしい。

映画は一人じゃ出来ないからね。


デジタルは人を幸せにしたのかな。
近視眼な人を増やしただけじゃないのかな。
posted by おおおかとしひこ at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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