ほぼ日の今日の糸井さんの話が面白かったので。
(明日の朝には消えちゃいます)
フィルムカメラをはじめて気づいたことは、
デジカメのような「モニタを見て確認する」がなくて、
どうなるか分からないところに突撃する面白さ、
というのがあること、
と僕は要約する。
これは昨今の映画への投資全てに当てはまる。
少なくとも20年前までは、
映画は10本セットで作るものだと言われていた。
9本は外れて1本当たれば、
それで回収できると。
ところが最近主流の製作委員会方式は、
1本で回収する方式のビジネスだ。
リクープ出来るという、
確実な未来を見据えてのビジネスである。
だからガチガチに固めたものしかやらない。
それが邦画を不自由にし、
既にヒットしたものしか映画化しないという硬直化を招いている。
そしてそのビジネスの目論見が正しくないことは、
糞みたいな実写化作品の塁塁たる死骸の群れを見れば明らかだ。
デジカメのモニタは、
確実な未来を写す。
だから安心。
私たち人類は、未来が見えない不安と闘ってきた。
占星術や科学の発展は、
未来を確実に予言するために発展したのだ。
で、確実な予言はひとつあって、
私たちは死ぬということ。(メメントモリ)
未来が見えない不安が明らかになることはない。
私たちは死んだらどうなるか、永遠に分からないからだ。
デジカメのモニタは確実な未来を写す。安心。
フィルムカメラは、上がるまでどうか、最終的には分からない。
それが不安と考えるか、
オラワクワクすっぞと考えるかは、
人次第なのかも知れない。
ということで、
びびらずに楽しめる人、どこかにいないかね。
ついでにいうと、
「自分は不安でもいいのですが、
○○さんが不安に感じるといけないので、
安全でいきましょう」という人ではなくて、
「○○さんは私が説得します」
あるいは「○○さんに話して了解取ってきました」
という人が、ほしい。
映画は一人じゃ出来ないからね。
デジタルは人を幸せにしたのかな。
近視眼な人を増やしただけじゃないのかな。
2017年07月10日
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