後輩がショートフィルムで出したプロット。
見事にメアリースー(ご都合主義の願望)に犯されている。
自主映画で散々見てきたパターンで、
それじゃダメだと思って俺はプロの世界に来たのだが、
ここもそうなりがちだということは、
来てみないと分からない事。
ということで見てみよう。
ざっくりいうとこんな感じ。
人生がうまく行ってない男が、
おっさんが頑張っているのを見て、
「こんなんじゃいかん」と、
勇気づけられ、おしまい。
ごく短い話なので、これ以上でも以下でもない。
これの一番どこがダメなのか。
これはストーリーではないところはなにか。
誰とも関わりあっていないところである。
主人公は「見た」だけであり、
そのおっさんと会話していない。
テレビで見たものに影響を受ける話、
本や新聞やネットに影響を受ける話と、
同じ構造でしかない。
一人称形のストーリー(もどき)は、
このような欠陥を生じやすい。
それは一見ストーリーの形をしているようで、
していない。
じゃあ、ストーリーとは何か。
それは、
「誰かと誰かが関わり合い、
関わる前とは違う状態になること」
と定義できると思うのだ。
この例では、主人公はそのおっさんとしゃべらなければならない。
そうしたうえで、そのおっさんに影響を受けなければならない。
ついでに、そのおっさんもちょっと影響を受けるべきだ。
だから結果は、
「あなたに影響を受けました、
明日から頑張ろうと思います」ではないかもしれない。
ストーリーは相互作用である。
主人公はおっさんから影響を受けるべきで、
おっさんは主人公から影響を受けるべきだ。
その結果、出会う前よりいい状態になる
(ハッピーエンド)べきだ。
(バッドエンドならその逆)
一方通行の「おっさんに影響を受けた」は、
ストーリーではない。
それはただの日記、ひとりよがりである。
三人称形のストーリーは、
目の前にある人々の外側を映す。
登場人物は二人。
その人たちは会話を交わさず、一人だけが、
「よしっ」って勝手にガッツポーズをとるだけ。
こう書き直すと、おかしなところが見えてくる。
なんでそうなるの?と。
それは、心の動きがカメラに映らないからである。
もちろん、それまでの落ち込んでいる感じ、
おっさんを見て何か思った感じ、
その後元気が出る感じを、
役者の芝居やアングルで見せることは可能だ。
しかしそれは、
主人公の一人芝居でしかないということ。
つまり、三人称形のストーリーというものは、
最低でも二人芝居が必要なのだということ。
一人が勝手に何かをすることは、
三人称においてはストーリーではない、とすら言える。
たとえばスパイが秘密作戦を実行して、
ミッションコンプリートするまでを、
一人で淡々とやるのを見せるのは、
ストーリーではない。
それは記録フィルムであり、
進行の記録であり、
ストーリーとはいえない。
ストーリーになるためには?
もう一人いる。
たとえばチームのもう一人、
作戦遂行の邪魔になる、通りすがりの一般人などである。
そして、ただ一回会話するだけではストーリーにならない。
その人と、会話してもめなければならない。
チームメイトと作戦の解釈でもめるとか、
今夜行く飯屋でもめるとか、
通りすがりの一般人と駐車場の止め方についてもめるとか、
そういうことが必要だ。
そして、
その先、
もめたことで、
最初に解決しようとしていたことが、
ラストに影響しなければならない。
ハッピーエンドならばよりよい解決になるべきだし、
バッドエンドならば二人とも最悪の結末になるべきだ。
この、「もめごとと、その結果の関係」
があるかどうかが、
ストーリーになっているかどうか、ということだ。
つまりストーリーの始まり方とは、
「誰かと誰かがもめている」
ところからはじめるべきである。
もちろん、
その人のバックストーリーを知らないと解決の糸口を見出しづらいので、
その前にバックストーリーを見せておく必要がある。
ということで、
原始的なストーリーの構造とは、
このようなものである。
1 主人公の事情。
2 二人がもめる。またはもつれる。
3 解決する。
4 それは、もめる前よりいい解決になった。
(または、もめなきゃよかったと思えるほど、双方悪い結果になった)
こんな単純な構造なんだよね。
勿論、もめる過程で相手の事情が分かったりすると、
さらにもめることの面白さ、
解決のスッキリさが際立つことだろう。
しかし大構造としては、
最低限これがあればいいということになる。
個人と個人がもめるのが、
最も小さいストーリーだろうけど、
それを組織や集団に拡大したり、
もめごとの数を複数にしていったり、
もめごとの構造を複雑にしていけば、
大きなストーリーにしていける、
というわけである。
そもそもあなたは、
何を書こうとしているのだろう。
それは自由だ。
しかしそれを、
ストーリーの形で書いていないと、
それはストーリーではなく、
日記やオナニーやルポでしかないのかも知れないよ。
いやいや、それも新しいストーリーの形式なのだ、
とあなたは主張するかもしれない。
それは、あなたにまだ客観性が育っていないだけのこと。
そんな形式のものは世の中にあふれていて、
それらとあなたのそれを区別するものは、
ネタ違い、発信者違いでしかない。
それは、数あるつぶやきの中に埋もれてゆく。
ストーリーを書くという行為は、
一方的な呟きや時系列を記録することではない。
もめごとの顛末を書く行為である。
その区別をしておくことだ。
もめごとの相手を敵といってもいいし、
アンタゴニストといってもいいし、
競争者といってもいいし、
もめごと自体をコンフリクトといってもいい。
それは技術用語にすぎない。
件の後輩には難しすぎるので、
僕はこのことを言わなかった。
もう少し、客観性を育ててからかな。
2017年07月10日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック