ネットの発達によって、
一人暮らしはますます一人になりつつある。
これが、独り言映画を増やしている原因のような気がする。
物語とはコンフリクトだ。
他者と他者のぶつかり合いである。
独り言の世界とは遠いはずだ。
これは現代の問題である。
ネットがないころは、人は強制的に他人と関わらないと生きていけなかった。
ネット通販はないから店で他人から買わなきゃいけないし、
情報を得るには、本を読むか詳しい人に聞くしかない。
一人で部屋にいても、本を読むか、音楽を聴くか、
テレビを見るかラジオを聞くしかなかった。
要するに、一人で部屋にいると退屈だった。
だから人は外に出かけた。
誰かと会い、話をするために。
話をしてもケンカしたりすることのほうが多かった。
だから家に帰ってくる。
しかし退屈でまた出かける。
その繰り返しだった。
しかし、ネットやスマホが、
人を一人にし続けることを可能にしてしまった。
通販でものを買い、ネットを見続けていれば、
外に出ることもなく退屈から解放される。
テレビやラジオは深夜になると終わったが、ネットは24時間。
そもそも日本である必要もなくなった。
ネットがなくてもスマホがある。
とにかく、
部屋で一人でいても、誰とも会わなくても、
問題ない世界になってしまった。
だから最近の人は、他人と関わるのを避ける傾向にある。
対面ではなにも言わなくても、
ツィッターではネット弁慶になるやつなんて山ほどいるだろう。
衝突を避けたり、傷つくことを避けたり、
ダメージを受けることを避けたりしているうちに、
現実の他人とは、
うまく関われない人、
昭和の感覚からしたら「弱い人」が増えてきたような気がする。
自分と反対する他人が現れた時、
逃げて関わらない以外の対処法をとれない人が、
増えてきたような気がする。
均衡点を探したり、闘って負かしたり、
相手の言い分も参考にして自分の意見を変えたり、
ケンカしたけど、相手を理解したら互いに仲良くなったり、
痛み分けをしたり、自分が圧倒的に負けても世界は続いていったり、
していない人が増えてきた気がする。
だから。
そういう人が書く物語には、
他人と他人のぶつかり合いがない。
そりゃそうだ。
スマホやネットばかり見ていて、
現実の他人とケンカしていないからだ。
ネットのケンカなんて、現実のケンカからしたらお子ちゃまだ。
物語とは、要するにケンカだ。
コンフリクトとはケンカだ。
それがどうやって起こって、
どう展開して、
どう決着がついたか、
それを面白おかしく書くのが、
物語だ。
その無限のバリエーションを現実に経験していないで、
すでにある物語を真似しかしない、
劣化コピーしか書けないから、
最近の物語は面白くないのかもしれない。
主人公がひとりでいるシーンのほうが、
書いてて楽だったりしないかい?
主人公のつぶやきのほうが、
他人とのぶつかり合いより、
書いてて楽しかったりしないかい?
争いなんて書こうとしないで、
主人公の思想ばかり描こうとしていないかい?
だとすると、それは、
一人暮らししすぎなのかもしれないぞ。
ケンカを書こう。
争いを書こう。
もめごとを書こう。
いざこざを書こう。
それが、思いもよらない方向へいき、
思いもよらない方向へ解決する話を書こう。
それを書くには、
ふだんから人を避けていては、
だめだと思うんだよね。
最近の若いやつは、とオジサン的には思うけど、
おれも最近争いは避けている。
パワハラとか言ってるのは、
争い慣れていない、よわっちいやつのたわごとだ。
殴り合いぐらいすればいいんだ。
人と人は、そうやって生きてきた。
その本質が、
ネットのせいでおかしくなってきている。
おかしくなってるのか、進化なのかは、
もう少し結論が出るまでかかる。
どちらにせよ、
独り言をいいつづける物語は、
もはや物語の体をなしていない。
さて。
あなたの主人公は、
誰ともめるのか?
一人か、複数か?
そのもつれこそ、ストーリーだぜ。
争いを避けていては、
ストーリーのもとになるものの経験が積めないよね。
もっとケンカしよう。
ネットじゃなくて、現実で。
現実の体験にまさるオリジナルはない。
2017年07月13日
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