たとえば、
「人によって態度を変えるやつ」がいるとする。
そのとき、
「どんな人にも同じように接するやつ」を出すのである。
対比だ。
人によって態度を変えるやつと、
どんな人にも同じように接するやつが、
一緒にいて、何かに出会ったら、
かならず対応が違うはずである。
そこでもめごとが起こる。
もめなくても、すれ違いや軋轢が起こる。
それが人を描くということだ。
リアリティーは、そういうところに出る。
同じことに対する態度や言葉や対応の違いを描いてもいい。
行動や価値観の違いにより対立してもいい。
対立しないにせよ、
その差異のせいで、また別の事件の種になってもいい。
差異は、物語の種である。
ここまでは並の脚本論でよくある話。
さて、ここから深く描くにはどうするか。
「なぜ、そのような考えに至ったのか」
を考えておくこと。
人には色々人生観、
つまり人生や世界をどのようにとらえているか、
があり、
それは人によって大きく異なる。
今、全く違う二人がいるのだから、
その人生観がどう形成されたのか、
考えてみるのだ。
最初からそうだったのか、
なにかのきっかけで変わったのか、
今はそう思っていても、いずれ変わる可能性はあるのか、
何か心に引っかかる何かがあって、
絶対譲れない価値観としてそうなったのか。
いろいろなパターンがあると思う。
そして、ここからが重要なのだが、
「その設定を本編中で使わない」ことが重要なのだ。
せっかくいいエピソードが出来たら、
つい解説したくなるんだけど、
それをぐっとこらえて、
それが言動の端々からにじみでるように、
その人を描けないか、やってみるのである。
なぜ今そうなっているのか、
わざわざ解説しながら生きている人はいない。
だから、普段はその人の過去などは一切わからない。
その人が何か日常とは違う文脈に出会ったとき、
ふとした時に、そのことが出てしまうことがある。
そういう時が、人の深さを描く時である。
深さを描くとは、
最初から深みを見せてもだめで、
一見こう見えていたのに、
掘ってみると深い、
というときに深さを感じるものである。
表面と、裏面、現在と現在に至る経歴、
そのふたつの同居をうまく描けるかということ。
かつ、対比的な人物と、どう違うかまで描ければ、
人間についてのなにかの見識を得られるだろうね。
それが何かについては、テーマ次第だけど。
最初の例に戻れば、
人によって態度を変えるか変えないかは、
他人との付き合いをどう考えるか、
自分に嘘をどれだけつけるか、
そういうことと関係していることがテーマになってくるんじゃないかな。
だとすると、
その対比が浮き彫りになりやすい事件が、
きっと起きるはずだ。
その事件を解決しようとする動機も、
そのやろうとするやり方も、
その二人は異なるだろう。
だから、もめたり対立するだろう。
呉越同舟でやるかもしれないし、
決裂するかもしれない。
それは、ストーリー次第であるけれど。
これは、現実的な人間ドラマでやってもいいし、
ぶっ飛んだ設定、
たとえば、宇宙人や幽霊への対応の違い、
などでやってもよい。
核となる人間の描き方、
つまり軸足が決まったのなら、
それを生かす、場を作っていけばいいだけのこと。
「行方不明になった父親が現れた」
という人間ドラマの事件、
「宇宙人が道に迷っている」
というぶっ飛んだ事件、
などからストーリーを考えてもいいし、
このように、
人間の深いところを描こうとして、
事件や場を考えてもいいのだ。
もしその二人が対立し、宿命の闘争をする、
ということになれば、
たとえば「ベン・ハー」みたいな、
壮大なスケールの人間ドラマに発展させてもいいんだぜ。
それが、ストーリーテリングの、
ダイナミズムというものじゃないかなあ。
人間は深い。
どこまでも深い。
それは、それまで生きてきたことや、
深い思惑が、
表面から見えないことで、
表現することができる。
(だから、物語には、
「実はこうだった」というパターンが多いのだろうね)
2017年07月14日
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そういうのは本来は悪手なのですね。
手軽にキャラの背負う人生を伝えることができるので
ついついやってしまいがちですが・・・
漫画と映画はまた違うと考えます。
映画は一気に始まって一気に終わるものなので。
漫画は長時間マラソンなので、
テンションが落ちてきたら過去編に飛ばして、
ガソリンを補給するということはあると思います。
でも僕個人は過去編は嫌いですね。
「それ、場繋ぎやん」と思ってしまいます。
最初の最初から作っておいて、
過去編も計算通りであるようなことは殆どないだろうから、
思い付きを足していく嘘くささを感じてしまいます。
それすらも魅力に出来れば理想なんですが。