2017年07月18日

コンセプト、ログライン、テーマ

とても混同しやすいこのみっつ、
あえて大岡流に分類する。


ドラマ「風魔の小次郎」

ビジネスコンセプト:
イケメン軍団による熱き美しき闘い。
車田正美原作で腐女子むけに、ドラマ舞台を狙う。
また、製作委員会方式でスポンサード。

ストーリーコンセプト:
学園抗争の裏には忍びの一族が。
今、風魔一族対夜叉一族の闘いがはじまる。

モチーフコンセプト:
学ランで忍者、忍びの必殺技、木刀アクション、必殺剣。
伝説の聖剣、サイキックソルジャー。


ログライン:
初めての忍務で姫子に惚れたお調子者の小次郎は、
忍び一族の闘いの中で、忍びとは何かを悟る。

テーマ:
忍びにも人間にもなれること。心に暖かい風を吹かせること。



コンセプトは、みっつに分かれると思われる。
それはどのようなワンアイデアで語れるかが、
コンセプトだ。いわゆるウリはこれに当たると思う。
それを聞いて、「おっ」と気を引くようなこと。
それは、
ビジネス上の狙い、
ストーリーの核となる枠組み、
モチーフの面白さ(ビジュアル的な)、
に分かれると考えられる。


ログラインは、ストーリーの大まかな構造だ。
「Aな主人公がBに出会いCする話」という大岡式でもいいし、
ストーリーの三幕構造をうまく一文にしてもよい。

テーマは、これら全てを見終わったあとに、
心に残る主張のようなもの、
このために全てがあったのか、と思われることだ。


最初に原作にあったものが、
ストーリーコンセプトとモチーフコンセプトであり、
それをビジネスコンセプトで商売にしようとしたプロデューサーが、
僕にストーリーを再構成するように依頼した。
そこで僕は、全体を整え直して、
ドラマ的になるような、
ログラインとテーマを付け足して融合したわけだ。

このストーリーを楽しむことで、
ビジネスコンセプトを満足させ、
かつ原作のコンセプトを歪ませないようにした。
元々、原作はログラインとテーマが弱いと感じていたので、
そこを底上げするように作ったわけである。
(この地味で解説しづらい丁寧な仕事がなければ、
ドラマ風魔は単なるバトルドラマ、たとえば実写男塾のような、
退屈で詰まらないものになっていただろう)


これらのものがガッチリ組み合ったからこそ、
予算以外は、風魔は大成功したと僕は考えている。

さて次は、半ば成功半ば失敗の例。


映画「いけちゃんとぼく」

ビジネスコンセプト:
「泣ける絵本」ナンバーワンに選ばれた、
白サイバラの実写映画化。
子供向け?ファミリー向け?
しかしラストのどんでん返しは、明らかに大人向け。
(初期にここを絞れなかったことが、
配給的にも宣伝的にも制作的にも失敗であった原因)

ストーリーコンセプト:
少年とオバケとの交流。

モチーフコンセプト:
美しい自然と、どうしようもない人々。(これはサイバラの基本モチーフ)
ヘンテコなオバケが一匹。
ラストのどんでん返し。

ログライン:
想像の世界に逃げていた少年が、
現実の世界と噛み合っていったとき、
見えていたオバケは消える。

テーマ:
愛は時を越える。
少年が大人になったときに、見えなくなったもの。


失敗点はふたつあって、

1. 当初のログラインにあった「想像の世界に逃げる」が、
途中でCG費が大幅に削られたため、多くが削減され、
一幕の元々の狙い「現実の厳しさと想像の楽しさの対比」が、
うまく表現できていないこと。
2. コンセプトは「子供向けに見せかけた大人向け」
というジャンルだと僕は主張したが、
「これは大人向けである」と決定した宣伝部が、
ポスタービジュアルを「海を見る老人二人の背中」にしたこと。
これは原作のコンセプトも捉えきれていないし、
映画のコンセプトも捉えきれていない。
この齟齬において、なに狙いかわからなくなり、
興行がふるわなかったこと。

このことにより、
「入り口でつまづきやすいが、
最後まで見れば傑作である感覚があり、
惜しいと思わせる作品」になっている。




コンセプトとログラインとテーマは、
「その作品を一言で伝えようとすること」
という点においては同じものに見える。
しかし、見る角度が違う。
どこから見て誰にとってとらえやすくなるか、
という違いではないだろうか。

ビジネスコンセプトは、それでビジネスをする、
プロデューサーや製作委員会むけ。
(彼らは脚本が読めない、と考えたほうが我々は心が楽だ。
読めない、というのは、
ストーリーそのものをビジネスの中心にするのではなく、
ストーリー以外のビジネス要素を読むから、と言い換えていい)

ストーリーコンセプトは、
それでもストーリーの「感じ」をざっくりワンビジュアルで把握しようとする人むけ。

モチーフコンセプトは、
メインビジュアルや、ポスターづらや、
ネタに興味のある人むけ。


これらは、入り口と言ってもいい。
観客が興味をもったり、
出資者が興味をもったり、スタッフが集まってくる、
ためのものである。

ログラインは、ストーリーの構造を示す。
入り口からストーリー世界に来た人への、
最初から最後までのルートを示したものである。

リーダー(脚本を読んでストーリーの良否の判断を下す人)、
監督やスタッフ、役者向けであるといえる。
完全ネタバラシは、たかが一言では示せないので、
うまく概要をまとめたいところだ。

これを400字や800字や1500字に展開したものが、
小説でいう梗概。
(冒頭から結末まできっちり書くことが求められる。
これは最後まで全部読んでクソだったときの予防線みたいなもので、
大抵は審査会用に添付するものである)

コンセプトが外から見た、
作品を一言で伝えようとすることであることに対して、
ログラインとは、
中に入って全体を俯瞰することである。

テーマは、
それらを全て楽しんだあとに、
最後に残る記憶のようなものである。
読後感という言葉もある。

コンセプトは入り口、テーマは出口であると言える。
ログラインは、入り口と出口を除いた中身みたいなことかな。



これらを理解すれば、
なぜテーマを予告に使うべきでないか、理解できる。
角川のアホ宣伝部は、予告でほぼどんでん返しのネタバラシをしている。
「『余命三ヶ月の花嫁』はネタバラシをしたタイトルだから、
ネタバラシしてもOK」と発言した無神経を、僕は末代まで許さない。
出口を見せてもダメだ。
入り口は予感や期待である。
(勿論出口のイメージが期待になるなら入り口にそれを持ってきてもかまわない)

あるいは、
ログラインにコンセプトやテーマを混ぜてもダメなのも理解できる。

あるいは、テーマにコンセプトやログラインを含めてもダメなわけだ。

それぞれは、それぞれ違う視点から、
違う時点の違う人に向けて、
作品を一言で伝えようとすることである。


僕がガワと言ってるのは、
大概コンセプトのことだ。
中身と言ってるのは、
大概テーマやログラインやその他のことである。

実際、中身を作ったあとならば、
ガワはいくらでも交換できる。
しかし、ガワに合う中身を作ることは意外と難しい。
スーツと人間の関係に似ていると僕は思う。
(だからコンセプトありきのストーリーは、
たいていヒキは強いのに、最後まで見れないほど詰まらない)



ちなみにこれは僕の説だ。
業界標準でもないし、
未分離で混同している人もいるだろう。
だけどこのように分離することで、
「この作品の本質はなにか」という問いには、
何バージョンもの角度からの答えがあるということが、
分かるのではないだろうか。


私の作品の本質はなにか?

これはすぐに見失う問いのひとつだ。
コンセプト、ログライン、テーマの、
三つの角度から書き下してみると、
自分の立ち位置が見えてくるかも。
posted by おおおかとしひこ at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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