2017年07月20日

リライトの迷走は、「本質」の取り違えが原因ではないか

「コンセプト、ログライン、テーマ」の記事の続き。

何故リライトは迷走し、混迷し、いつまでたっても良くならないのか。
特に複数の人間が絡むと、急にリライトは迷路に入る。

僕は、先の「コンセプト、ログライン、テーマ」
の記事が参考になるのではないかと考える。
つまりリライトの混迷とは、
「本質」を別のところから捉えていることが原因ではないか?


その映画の本質は何か?
正確に捉えることは困難である。

それは、「どの文脈から捉えるか」
で異なるからである。


たとえば「ルパン三世カリトストロの城」は、
興行という文脈からは、失敗作という本質を持っている。
当時の興行文脈がどのようにあり、
作品性の素晴らしさと宣伝興行がどれくらい解離していたかは、
リアルタイムに小学生だった僕は分からない。

しかしたとえば、
「ウリが足りないから、剛力を声優に使ってPRせよ」なんて戦略を取り、
剛力の為の役を作って絡めるとしたら、
作品が台無しになること位は分かるだろう。

しかし興行の文脈から見ればそれは正解のひとつ。
問題は、
興行の文脈と作品性の文脈が齟齬を来していることである。

つまり、カリトストロの城は、
ビジネスコンセプトが弱かった作品だと言える。
「テレビシリーズルパン三世の映画版」以外に、
ビジネスの独自性があったかは、
当時の文脈が分からないのでなんともいえない。

今見れば冒険あり恋ありの正統派王道映画の、
何が売れなかったのかさっぱりだ。
「マモー」に続く映画版第二弾として、
文脈的に完璧な作品だと思うんだけど。
70年代の怪奇ブームと合わなかったのかしら。


まあいいや。

つまり、
とある作品を巡って、
そこからどのような「本質」を抽出するかは、
立場によって文脈が異なる、
ということを言いたいわけだ。

今ここに、
微妙な出来の脚本があるときを考えよう。

プロデューサーは、
ウリが欲しいので、
ビジネスコンセプトや、ストーリーコンセプト、モチーフコンセプトを、
足してくれ(または余計なものは排除してくれ)
と要求するだろう。

脚本家またはスクリプトドクターならば、
ログラインが弱いとか、
感情移入が弱いとか、
テーマが時代とあってないとか、
テーマが結論になるようにセットアップが出来てないと、
構造的な部分を指摘するだろう。

俳優や事務所ならば、
出番を増やしてくれとか、もっといい台詞を書いてくれと言うだろう。
このキャラクターはこういうのはどうだ、
と新しい提案をしてくるだろうし、
それがストーリーに与える影響なんて知ったこっちゃないだろう。

(そこをなんとかするのが脚本家だ、
と業界では思われている節がある)


あるいは、
アドバイスを与える人は、
ログラインを誤読していたり、
テーマを捉えきれていない可能性がある。
だから「こうしたらどうか」という提案そのものが、
本質からずれている可能性がある。

逆に、その人が理想とするものに近づけたくて、
現状のものと違うものへ誘導しがちである、
ということを知っておくのもいい。

そのときには、相手の理想と、
(まだ未完成ではあるが)自分の理想とが、
どう食い違っているかを議論したほうがいい。
それは、二つの理想を現状の議論から抽出する、
という高度な議論力が必要になるので、
全員が毎回完璧に出来るとは限らず、
また、二つの理想の違いが抽出出来たとしても、
その先の、ありうべき理想について、
二つの理想を融合させる力が双方にあるとは限らない。


これらが、すべて同時に起こるのが、
リライトの現場ではないだろうか?


最悪、これらが結論の方向性もなく丸投げされて、
「なんとかうまく書き直してくれ」と言われるだけである。


複雑混迷を極めた条件は、
整理されなければならない。

まず何故その脚本がいまいちな原因をさぐり、
その時点での理想はどうかを見なくてはならないのに。


その作品の本質は何か?
について、そもそもきちんと分析出来ているか?

現状と、理想について、
ビジネスコンセプトはしっかりしているか。
ストーリーコンセプトは良さそうか。
モチーフコンセプトにヒキはあるか。
ログラインは面白い話を予感させるのか。
テーマは人に影響を与えるのか。
ログラインやテーマに落ちるようにそもそも構造が出来ているのか。

これら5つの一つでも欠けていたら、
そもそも成功する作品にはならないと、
僕は最近考えている。
これらは、独立した5つの方向から本質を捉えようとするものだと考える。

たとえばログラインが弱いのに、
ビジネスコンセプトが弱いと文句を言っても筋違いだ。
あるいはビジネスコンセプトが間違っているものに、
モチーフコンセプトを歪めていっても筋違いだと思う。



つまり、リライトの混迷は、
「誰もが自分の思うことを本質だとしていて、
それらが食い違っていることに気づいていない、
もしくは無視している」
ことが原因であると、今の僕は考えている。

現状の本質について的確に現状を見て、
かつ、
理想の本質について合意し、
その理想が実現するにはどうすればいいかを、
整理していくのが、
おそらく理想のリライトだ。

個人が個人で思うことをわあわあ言って、
「私の言うことが反映されたかどうか」チェックの、
パワーゲームになるべきではない。



映画「いけちゃんとぼく」は、
ビジネスコンセプトが弱かった。
ファミリー向けなのか、
大人向けなのか、
ファミリーの皮を被った大人向けなのか、
事前に詰めていなかった。
(どういうのがあり得るのか、
脚本を見てから考える、という素人集団であった。
それはビジネスの目論見がないということにつきる)

だから、ログラインが「想像の世界から現実へ着地する」
であったとしても、
「想像の世界はなくていいんじゃないか」とか、
ストーリーの本質が、
「成長によって想像の世界が見えなくなる」であるのに、
「野球のシーンは全カットでいい」とか、
自分勝手な意見が飛び交うのだ。

ビジュアルコンセプトが、
「オバケをはじめとする想像の世界に力を入れる」
だったのに、
ビジネスコンセプトがふらふらして、
「大人向けの映画に子供っぽいCGは不要」と判断して、
予算を1億削り、
CGカットを100カット削る(!)なんてことは、
筋違いなのである。

このような混迷を整理しない限り、
映画は必ずちぐはぐになる。

試写会に来た映画評論家が、
「池子を主役にして、そのラブストーリーを30分見たかった」
などと誤読するのも、
「本質」がぶれている証拠だと僕は考えている。


じゃあ、どんなビジネスコンセプトなら良かったのか。
僕は10年近くそれを考えている。
原作同様、
「子ども向けと思わせておいて、実は大人向けのファンタジー」
を全面に出すべきだったと考えている。
それにはやはり当初提示された予算、3.5億必要で、
削減後の予算2.5億では、
とてもでないがビジネスコンセプトの変更が必要だったはずだ。
で、そのビジネスコンセプトに3.5億かけるのでは、
リターンが見込めないと判断するのならば、
10億突っ込んでもっと強化しようでもいいし、
中止しても良かったと思う。

僕のデビュー作としてスタートしたけど、
10億になるなら、デビューの僕を説得して退かせ、
ナカテツにでも依頼すれば良かったのである。
それが億のビジネスというものだと僕は思う。

残念ながら、人員配置と金を握るのは会社組織である、
プロデューサー陣だ。
ビジネスの責任は彼らにある。

その作品の「本質」を見誤ったまま、
時だけが過ぎてしまったのが、
リライトの失敗だと、
今なら俯瞰して見ることができる。



さて。


あなたのリライトは、
なぜうまく行かないのか?

それは、あなたが、あなたの作品の本質を、
うまく捉えられていないからで、
しかも、アドバイスや指示をする人が、
あなたの考える本質と違う本質を考えているからではないか?

理想の、5つの方向からの本質を、
まず共有したほうがいいのではないか?

勿論、複数の人が関わるリライトと、
一人でやるリライトは、事情が異なる。
でも結局、
第一稿を書いた私と、
分析する私と、
これから書く私が、
議論するだけのことだと思うんだよね。

その時、5つの方向から満遍なく見れているかとか、
本質を見誤っていないかと、
チェックする俯瞰の私も、
必要かも知れない。



何故リライトは混迷するか?
目の前のことだけ見ていて、
違うところを見ていて、
違う理想を見ているからである。
posted by おおおかとしひこ at 13:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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