「コンセプト、ログライン、テーマ」の記事の続き。
何故リライトは迷走し、混迷し、いつまでたっても良くならないのか。
特に複数の人間が絡むと、急にリライトは迷路に入る。
僕は、先の「コンセプト、ログライン、テーマ」
の記事が参考になるのではないかと考える。
つまりリライトの混迷とは、
「本質」を別のところから捉えていることが原因ではないか?
その映画の本質は何か?
正確に捉えることは困難である。
それは、「どの文脈から捉えるか」
で異なるからである。
たとえば「ルパン三世カリトストロの城」は、
興行という文脈からは、失敗作という本質を持っている。
当時の興行文脈がどのようにあり、
作品性の素晴らしさと宣伝興行がどれくらい解離していたかは、
リアルタイムに小学生だった僕は分からない。
しかしたとえば、
「ウリが足りないから、剛力を声優に使ってPRせよ」なんて戦略を取り、
剛力の為の役を作って絡めるとしたら、
作品が台無しになること位は分かるだろう。
しかし興行の文脈から見ればそれは正解のひとつ。
問題は、
興行の文脈と作品性の文脈が齟齬を来していることである。
つまり、カリトストロの城は、
ビジネスコンセプトが弱かった作品だと言える。
「テレビシリーズルパン三世の映画版」以外に、
ビジネスの独自性があったかは、
当時の文脈が分からないのでなんともいえない。
今見れば冒険あり恋ありの正統派王道映画の、
何が売れなかったのかさっぱりだ。
「マモー」に続く映画版第二弾として、
文脈的に完璧な作品だと思うんだけど。
70年代の怪奇ブームと合わなかったのかしら。
まあいいや。
つまり、
とある作品を巡って、
そこからどのような「本質」を抽出するかは、
立場によって文脈が異なる、
ということを言いたいわけだ。
今ここに、
微妙な出来の脚本があるときを考えよう。
プロデューサーは、
ウリが欲しいので、
ビジネスコンセプトや、ストーリーコンセプト、モチーフコンセプトを、
足してくれ(または余計なものは排除してくれ)
と要求するだろう。
脚本家またはスクリプトドクターならば、
ログラインが弱いとか、
感情移入が弱いとか、
テーマが時代とあってないとか、
テーマが結論になるようにセットアップが出来てないと、
構造的な部分を指摘するだろう。
俳優や事務所ならば、
出番を増やしてくれとか、もっといい台詞を書いてくれと言うだろう。
このキャラクターはこういうのはどうだ、
と新しい提案をしてくるだろうし、
それがストーリーに与える影響なんて知ったこっちゃないだろう。
(そこをなんとかするのが脚本家だ、
と業界では思われている節がある)
あるいは、
アドバイスを与える人は、
ログラインを誤読していたり、
テーマを捉えきれていない可能性がある。
だから「こうしたらどうか」という提案そのものが、
本質からずれている可能性がある。
逆に、その人が理想とするものに近づけたくて、
現状のものと違うものへ誘導しがちである、
ということを知っておくのもいい。
そのときには、相手の理想と、
(まだ未完成ではあるが)自分の理想とが、
どう食い違っているかを議論したほうがいい。
それは、二つの理想を現状の議論から抽出する、
という高度な議論力が必要になるので、
全員が毎回完璧に出来るとは限らず、
また、二つの理想の違いが抽出出来たとしても、
その先の、ありうべき理想について、
二つの理想を融合させる力が双方にあるとは限らない。
これらが、すべて同時に起こるのが、
リライトの現場ではないだろうか?
最悪、これらが結論の方向性もなく丸投げされて、
「なんとかうまく書き直してくれ」と言われるだけである。
複雑混迷を極めた条件は、
整理されなければならない。
まず何故その脚本がいまいちな原因をさぐり、
その時点での理想はどうかを見なくてはならないのに。
その作品の本質は何か?
について、そもそもきちんと分析出来ているか?
現状と、理想について、
ビジネスコンセプトはしっかりしているか。
ストーリーコンセプトは良さそうか。
モチーフコンセプトにヒキはあるか。
ログラインは面白い話を予感させるのか。
テーマは人に影響を与えるのか。
ログラインやテーマに落ちるようにそもそも構造が出来ているのか。
これら5つの一つでも欠けていたら、
そもそも成功する作品にはならないと、
僕は最近考えている。
これらは、独立した5つの方向から本質を捉えようとするものだと考える。
たとえばログラインが弱いのに、
ビジネスコンセプトが弱いと文句を言っても筋違いだ。
あるいはビジネスコンセプトが間違っているものに、
モチーフコンセプトを歪めていっても筋違いだと思う。
つまり、リライトの混迷は、
「誰もが自分の思うことを本質だとしていて、
それらが食い違っていることに気づいていない、
もしくは無視している」
ことが原因であると、今の僕は考えている。
現状の本質について的確に現状を見て、
かつ、
理想の本質について合意し、
その理想が実現するにはどうすればいいかを、
整理していくのが、
おそらく理想のリライトだ。
個人が個人で思うことをわあわあ言って、
「私の言うことが反映されたかどうか」チェックの、
パワーゲームになるべきではない。
映画「いけちゃんとぼく」は、
ビジネスコンセプトが弱かった。
ファミリー向けなのか、
大人向けなのか、
ファミリーの皮を被った大人向けなのか、
事前に詰めていなかった。
(どういうのがあり得るのか、
脚本を見てから考える、という素人集団であった。
それはビジネスの目論見がないということにつきる)
だから、ログラインが「想像の世界から現実へ着地する」
であったとしても、
「想像の世界はなくていいんじゃないか」とか、
ストーリーの本質が、
「成長によって想像の世界が見えなくなる」であるのに、
「野球のシーンは全カットでいい」とか、
自分勝手な意見が飛び交うのだ。
ビジュアルコンセプトが、
「オバケをはじめとする想像の世界に力を入れる」
だったのに、
ビジネスコンセプトがふらふらして、
「大人向けの映画に子供っぽいCGは不要」と判断して、
予算を1億削り、
CGカットを100カット削る(!)なんてことは、
筋違いなのである。
このような混迷を整理しない限り、
映画は必ずちぐはぐになる。
試写会に来た映画評論家が、
「池子を主役にして、そのラブストーリーを30分見たかった」
などと誤読するのも、
「本質」がぶれている証拠だと僕は考えている。
じゃあ、どんなビジネスコンセプトなら良かったのか。
僕は10年近くそれを考えている。
原作同様、
「子ども向けと思わせておいて、実は大人向けのファンタジー」
を全面に出すべきだったと考えている。
それにはやはり当初提示された予算、3.5億必要で、
削減後の予算2.5億では、
とてもでないがビジネスコンセプトの変更が必要だったはずだ。
で、そのビジネスコンセプトに3.5億かけるのでは、
リターンが見込めないと判断するのならば、
10億突っ込んでもっと強化しようでもいいし、
中止しても良かったと思う。
僕のデビュー作としてスタートしたけど、
10億になるなら、デビューの僕を説得して退かせ、
ナカテツにでも依頼すれば良かったのである。
それが億のビジネスというものだと僕は思う。
残念ながら、人員配置と金を握るのは会社組織である、
プロデューサー陣だ。
ビジネスの責任は彼らにある。
その作品の「本質」を見誤ったまま、
時だけが過ぎてしまったのが、
リライトの失敗だと、
今なら俯瞰して見ることができる。
さて。
あなたのリライトは、
なぜうまく行かないのか?
それは、あなたが、あなたの作品の本質を、
うまく捉えられていないからで、
しかも、アドバイスや指示をする人が、
あなたの考える本質と違う本質を考えているからではないか?
理想の、5つの方向からの本質を、
まず共有したほうがいいのではないか?
勿論、複数の人が関わるリライトと、
一人でやるリライトは、事情が異なる。
でも結局、
第一稿を書いた私と、
分析する私と、
これから書く私が、
議論するだけのことだと思うんだよね。
その時、5つの方向から満遍なく見れているかとか、
本質を見誤っていないかと、
チェックする俯瞰の私も、
必要かも知れない。
何故リライトは混迷するか?
目の前のことだけ見ていて、
違うところを見ていて、
違う理想を見ているからである。
2017年07月20日
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