2017年07月22日

ストーリーとテーマの解離

テーマは、どんな形でもいいか。
僕は、ストーリーで表現できるテーマは、
すべての文章や思考や主張に比べて、
とても狭い範囲だと考えている。

ストーリーで主張出来ないタイプのテーマは、
僕はストーリーで表現するのは間違いだとすら考える。

それを、ストーリーとテーマが解離している、
ということにでもしよう。


テーマとはなんだろうか。
ごく単純な形では、
「その経験から得られた教訓」
(○○のときに○○してはいけない、
○○すると○○になる、
○○は○○した方がいい)
であると僕は考える。

以前、「浦島太郎というストーリーには、
どういう教訓が含まれているのか?」
という議論をした。
結論から言えば、
「浦島太郎はストーリーではない。
言い伝えられた伝説のようなものであり、
テーマを伝えるストーリーの形をしていない。
従って特に教訓はない」だと僕は考える。
一見「遊び呆けていると時間が速くたつ」的なことに思えるけれど、
浦島は亀を助けたお礼にいただけであり、
そろそろ帰らないと、と節度を持った人物である。
しかも玉手箱なる爆弾を持たされて、時空を越えた故郷に帰される。
親切を全て仇で返されたようなもので、
ここから教訓を読み取れという方が無理だ。

「下手に親切にするな」
「親切は恩を期待してはいけない」
「親切は無償であるべきだ」
なんてことを読解しようとしても、
どこかに無理のあることになる。


つまり、浦島太郎はストーリーとして欠陥を抱えている、
出来ていない作品である。
そして浦島太郎は民話であり、
特定の作者がいるストーリーという形式ではないから、
民話はストーリーじゃないと文句をいっても筋違いだ。

だからそもそも、
「浦島太郎ってどういう教訓があるの?」
という問いが間違っている。
ストーリー構造からテーマを読み取るという、ストーリーの楽しみ方を、
場違いの民話に持ち込んだという間違いなのである。

「主人公がいて、
他の登場人物もいて、
なにかと出会ったり事件があったりして、
なんらかの体験をして、
それが何らかの結末を迎える」
という物理的構造は、
ストーリーも民話も同一なのに、
大きく違うのである。

違うのは、
ストーリーは「テーマのために構造が計算されて作られている」、
民話は「誰かが聞いたネタ話が、口承により変形して、
尾ひれはひれがついて完成したいくつかのバージョン」、
という点だ。

ストーリーは、混沌から秩序を作り完成させる、エントロピー現象の方向、
民話は、ネタから混沌を作り出して行く、エントロピー増加の方向、
と、実はお話形成において、
真逆のベクトルが働いている。

ストーリーは作者による秩序形成の力。
民話は集合的無意識的な、「単におもろい方へ」という混沌方向の力。


ふたつは同一の物理的実態を持ちながら、
つまりは全く違う構造を持っている。


話というのは、放っておくと混沌の方向へ進む。
おもろい方へ、おもろい方へ、と転がしていって、
次どうすればいいのか分からなくなり、
書けなくなった経験を持つ人は多いだろう。
それは、嘘つきが、
最初は小さな嘘だったのに、
どんどん辻褄を合わせようとして嘘が大きくなっていくことに、
似ていると思う。
どちらも、破綻する、というエンドも同じだ。

(僕の話に度々登場する、
「マルホランドドライブ」という映画も、まさにそれだ。
ツインピークスは見てないのだが、恐らく同じだ。
浦沢直樹「MONSTER」は読んだが、同様だ)



ようやく本題。

だから、ストーリー構造でテーマを語るのは、
実は大変難しいことなのだ。

原始的な教訓ならいけそうだ。
「女の夜の一人歩きは危険である」なんてテーマを語るには、
「女が油断して夜エロい格好で一人歩きして、
レイプされて殺される」なんてストーリーを組めばいい。
「その犯人も誰かに襲われて殺される」なんて落ちを作れば、
「この世には危険な混沌があり、平和とは薄氷のようなもの」
なわてテーマに結びつけることも可能だろう。
その犯人を捕らえ、法で裁けば、
「法による秩序は人類のたどり着いた叡智である」というテーマに結びつけられるし、
法では無理なのでリンチをしにいく話になれば、
「目には目を」というテーマに結びつけられるだろう。

このように、
教訓から派生して、
世界はこうあるべきだとか、こうあってはならないとか、
そのようなことを、ストーリー構造から語ることは可能だ。

だから、
ついつい、
「自分の独自の主張を考える」
「その主張をするためにストーリーを書く」
ということが、作者の使命のように勘違いしてしまう。

勿論、
独自で素晴らしい主張であり、
それが見事に面白いストーリーになり、
ラストで号泣や爆笑などの心が深く動くことと同時に、
「たしかにその通りだ、私の世界への見方は、
この独自の主張によりまるで変わった」
と人々がなることが、
不可能であると言っている訳ではない。

それは理想にすぎないだけだ。
(よく考えてみたら、それはエルカンターレ並の布教だよね)


問題は、その理想に比べて、
出来の悪い構造ばかりが糞みたいに量産されることにあるのだ。
それは何故か?
脚本家、作家の下手さに起因するわけだ。

まずその独自の主張が、
素晴らしいかどうかの検証が出来ていない。
次にその主張が、
ストーリーの形式で表現できるとは限らない、
ということに気づいていないわけだ。

ためしに、社会契約説をストーリーで表すことできる?
無理だよね。学研漫画にはなるけど、映画でそれを受けとることは出来ない。

昔、BEGINの
「オジイ自慢のオリオンビール」のペアみたいな歌、
「オバア自慢の爆弾鍋」という歌をテーマに、
映画を作れないか?
みたいな依頼があった。
何いってんのこの人、と僕は思った。
当時、「涙そうそう」なんて、歌をテーマに映画を作る、
みたいなブームがあったころだ。

何いってるのか分からない。
歌は、映画にはならない。
歌は感情であるから、その感情を中心に表現することは、
映画でも勿論出来るけど、
それとストーリーは関係ないと思う。

あるいは。

たとえば、
「差別はなくなるべきだ」という主張を物語ですることは、
不可能ではない。
だけど、そう受け取った人は、それから何をしていいか分からない。
だから、差別はなくならない。
だから、その主張を映画で作ることに、僕は意味がないと考える。



ある種の主張は、
映画のストーリー構造に乗らない。
また、ある種の主張は映画のストーリー構造になったとしても、
その主張を実現する世界への構築の役に立たない。

差別批判の映画が何故意味がないかというと、
否定形のテーマだからだ。肯定のテーマだとしたら、
理想を示し、それを真似することでその主張は広がる可能性がある。

疑問を投げかけ、議論を起こし、賛否両論を狙う、
というパターンも最近ある。
でもそれは主張ではなくゲリラだ。
僕は火付け盗賊に意味はないと考えている。



あなたの主張は、そもそもストーリー構造で表現できるのか?
それを検討したことがあるか?
主張が優先ならば、それはストーリーの形を取らなくていいかも知れない。
あなたはストーリーを書きたいのではなく、主張したいだけの可能性がある。
ストーリーだけを書きたいだけなら、
プログラムピクチャーをやればいいと思う。
そこに文学的進歩はないけれど、世界秩序の維持、という目的もある。

主張とストーリーがうまく融合した、
素晴らしい映画を作りたいなら、
主張とストーリー構造の検討からはじめてはどうか。


勿論、主張など決めず、
書きたいものだけを書いたら、
自然と独自の主張をしていた、
なんてケースもある。大抵の名作はこうかも。
それはあなたの無意識から出たものだ。
毎回無意識が解決してくれるわけではない。
それを自覚下におくことも、僕は大事であると考えている。
posted by おおおかとしひこ at 15:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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