大衆とはなにか。
大衆芸術である映画は、大衆をどう考えるべきか。
資質がバラバラな人々、と僕は考える。
IQも好みも。
出身地方も文化も。
哲学や信念も。
何もかもバラバラなのが大衆だ。
IQを低い方に合わせれば、高い人が退屈する。
高い方に合わせれば、低い方はついてこれない。
平均に合わせたら、普通のものにしかならない。
鋭い表現とは、一部の人にしか刺さらないことだ。
だから鋭い表現をしたいなら、
その一部の人にしか刺さらないのではなく、
多方面の一部の人に刺さるように、
角度を変えて何回か刺すといい。
大衆は、結果的にどこかで一回ぐらい刺さってくれるだろう。
ということは、あなたは偏りながら、多方面に偏ることが出来なければならない。
全員に刺さる表現はない。
それは、資質がバラバラだからである。
じゃあ大衆芸術は存在しないのか。
するのだ。
感情移入によってである。
感情移入とは、自分と関係ない第三者の、
事情や行動を知るうちに、
その人がまるで自分であるかのように錯覚させる、
物語の魔法である。
だから、バラバラな大衆を、
各個撃破していくのは頭の悪い方法で、
感情移入に巻き込むのが賢い方法だ。
各個撃破とは、この場合、
観客層はこれくらいの確率分布だから、
その全ての層に刺さる表現を、確率分布的に配置することを言う。
マーケティングを、物語に間違って適用すると、
こうなってしまう。
「誰向けの物語」などという物語などない。
物語とは大衆向けであるべきだ。
だから、特定の個人や、特定の層にそれぞれ用意するのは、
近道のようで遠回りだ。
クラスタ分けを細かくすればするほど、先細る。
大衆向けとは、もっと図太い何かである。
大衆が一瞬反応しなくたっていい。
大衆と関係ない第三者を見ているうちに、
その熱狂に巻き込まれていけばいいだけだ。
大衆はバラバラである。
しかし、人間である、という共通点を持っている。
バラバラだけど人間だってことは、どういうことか。
私と彼らの同じところと違うところはどこか。
同じところはわかりあえる。
違うところは?
違うところも、話せばわかりあえる。
それは、話していくと、違ったところにも同じところを見つけるからだ。
それが人間である。
大衆はバラバラだ。
スピードも歴史も違う。
だけど、人間だ。
大衆芸術とは、それを分かって利用して、
最終的に大衆が熱狂するものを言うと思う。
その種は、感情移入だ。
誰向けとか考えるのは、僕はバカだと思っている。
大衆向けなのが一番いいと考えている。
2017年07月23日
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