2017年07月23日

資質がバラバラなのが大衆だ

大衆とはなにか。
大衆芸術である映画は、大衆をどう考えるべきか。

資質がバラバラな人々、と僕は考える。


IQも好みも。
出身地方も文化も。
哲学や信念も。

何もかもバラバラなのが大衆だ。

IQを低い方に合わせれば、高い人が退屈する。
高い方に合わせれば、低い方はついてこれない。
平均に合わせたら、普通のものにしかならない。

鋭い表現とは、一部の人にしか刺さらないことだ。
だから鋭い表現をしたいなら、
その一部の人にしか刺さらないのではなく、
多方面の一部の人に刺さるように、
角度を変えて何回か刺すといい。
大衆は、結果的にどこかで一回ぐらい刺さってくれるだろう。
ということは、あなたは偏りながら、多方面に偏ることが出来なければならない。


全員に刺さる表現はない。
それは、資質がバラバラだからである。
じゃあ大衆芸術は存在しないのか。
するのだ。
感情移入によってである。

感情移入とは、自分と関係ない第三者の、
事情や行動を知るうちに、
その人がまるで自分であるかのように錯覚させる、
物語の魔法である。

だから、バラバラな大衆を、
各個撃破していくのは頭の悪い方法で、
感情移入に巻き込むのが賢い方法だ。

各個撃破とは、この場合、
観客層はこれくらいの確率分布だから、
その全ての層に刺さる表現を、確率分布的に配置することを言う。
マーケティングを、物語に間違って適用すると、
こうなってしまう。
「誰向けの物語」などという物語などない。
物語とは大衆向けであるべきだ。

だから、特定の個人や、特定の層にそれぞれ用意するのは、
近道のようで遠回りだ。
クラスタ分けを細かくすればするほど、先細る。

大衆向けとは、もっと図太い何かである。
大衆が一瞬反応しなくたっていい。
大衆と関係ない第三者を見ているうちに、
その熱狂に巻き込まれていけばいいだけだ。

大衆はバラバラである。
しかし、人間である、という共通点を持っている。
バラバラだけど人間だってことは、どういうことか。
私と彼らの同じところと違うところはどこか。
同じところはわかりあえる。
違うところは?
違うところも、話せばわかりあえる。
それは、話していくと、違ったところにも同じところを見つけるからだ。
それが人間である。

大衆はバラバラだ。
スピードも歴史も違う。
だけど、人間だ。
大衆芸術とは、それを分かって利用して、
最終的に大衆が熱狂するものを言うと思う。
その種は、感情移入だ。


誰向けとか考えるのは、僕はバカだと思っている。
大衆向けなのが一番いいと考えている。
posted by おおおかとしひこ at 15:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック