2017年07月25日

物語の登場人物は、少しだけテンションが高い

なぜ登場人物は、テンションが高いのか。
そのほうが魅力的だからだ。


人より少しだけ楽しそうな人は、ついつい見てしまう。
その人の楽しい顔を見ると、こっちまで楽しくなる。

人より少しだけ勇気のある人は、ついつい見てしまう。
その人の勇敢な行動を見ると、こっちまで勇気をもらえる。

人より少しだけ優しそうな人は、ついつい見てしまう。
そしてその人の優しい顔を見ると、こっちまで優しくなる。

人より少しだけ傷つきやすい人は、ついつい見てしまう。
そしてその人の傷つく顔を見ると、こっちまで心を痛める。

人より少しだけ正義感で怒る人は、ついつい見てしまう。
そしてその人の怒る顔を見ると、こっちまで正義感が湧いてくる。


物語は見世物である。
そこに見るべきものがあれば、なんでも見世物だ。
見世物とは、派手な仕掛けやどんでんや爆発やCGのことだけを指さない。

人こそが見世物である。

私たちは、少しだけテンションが高い人がいると、
その人を見てしまう。
ローテンションの時に、
いつも笑っている元気な女の子に勇気をもらうことは、
まれによくあること。(女子なら男女逆に考えてください)

物語に出てくる人は、その役割を果たすことが、
同様に、まれによくある。


どうしてテンションが少し高いのか。
なんもいいことない、たいして生活が変わらない、
どうでもいい我々と何が違うのか。

彼らの存亡に関わる危機があるから、
テンションが上がっているのである。

物語とは、動機のある人物の行動の軌跡である。
その動機は「なんとなく」では人は動かない。
それをしないと死ぬとか、
それをしたら今のダメな自分から脱出できて生まれ変われるとか、
人生を賭ける理由で、
その動機をもって、
その場にいる人ばかりである。

だからテンションが高い。

甲子園でもサスケでもいい。
そういうものをイメージしよう。
人生を賭けた大会では、
ひとつの悲喜こもごもが、人生の悲喜こもごもに相当する。
一回の感情が、人生で二度とないくらいの大きな感情になることがある。

物語とは、
甲子園やトーナメントでない何かで、
「その人にとっての甲子園」が起こることである。

(だからジャンプの漫画がすぐトーナメントになってしまうのは、
ストーリー展開で何かをつくることから逃げているのである、
と糾弾可能だ)

「ロッキー」なら世界戦のチャンスが。
「ルパン三世カリオストロの城」ならかつて失敗したヤマとの再会。
ドラマ「風魔の小次郎」なら初の忍務。
(もう一人の主人公壬生が面白くなり始めたのは、
黄金剣を奪ったあとだということを思い出そう)


僕はよくストーリーを、「一年生のとき」にたとえる。
小一でも中一でも高一でも、
大学一年生でも、社会人一年生でも、
父親一年生でも部長一年生でも、バイト一年生でもいい。

一年生のときは、
どんなことも初めてで、新鮮で、
なにがあっても普通以上に喜んだり、慌てたり、傷ついたり、怒ったりするものだ。
それはそこの空気を学ぶ前だからこそできる、
「素の反応」だと思うのだ。
日本人はすぐ空気に順応する文化の民族であるが、
一年生のときだけは、それを外れていいルールになっている。
だから一年生だけがテンションが高かったりする。
「おれはじめてだよ、すげー」ってなっている。

その時のときめきとか、よろこびとか、失望とか、くやしさとかを、
忘れない方がいい。


物語の登場人物は、
はじめて自分の人生を賭けることに挑む。
人生の一年生のようなものだ。
(そして多分二度と人生を賭けるような危険なことはしないだろう。
それはこの冒険でハッピーエンドになって、
のちのちは幸せに暮らすからである)

だから、物語の人物は、一年生のように、
テンションが高い。
飢えた猛犬のように、切れるナイフのようになっている。


人より少しテンションが高い人は魅力的だ。
思わず見てしまう。
だから見世物としての価値がある。
誰でも一年生の時があった。
二年生三年生になるに従って、
慣れて、「ああ、ハイハイ」と「処理」できるようになったはずだ。
しかしそれじゃあ物語にならない。

物語はすべからく初体験を描くものである、と僕は思う。
だからドキドキし、不安で、必要以上に落ち込み、
だから沢山喜ぶのである。

それを傍から見たら、
テンションが高くて、魅力的に見えていて、
それは見世物になるということなのである。


必死に何かやっている人を、ついつい見てしまう。
必死に何かやっている人を、ついつい助けたくなる。
必死に喜び、悔しがり、泣く人に、ついつい肩入れしたくなる。

見世物というのは、それを見ることである。
(いま松居一代がリアルタイム見世物になっている)


あなたは、見る側にもいなきゃいけないし、
必死になにかやっている地平にもいなきゃいけない。
作家って分裂症だ。


テンションの高いとき、人の頬は紅潮して、目がうるむ。
芝居の出来ない女優に、ちょっと走ってこい、
という演技指導があると聞いたことがある。
目の悪い女優がコンタクトを外すと目が潤むという技もある。
物理的にそういう状態に持っていく荒業だ。
頬のチークだってそういうことだ。
汗が美しいのは、そういうことだ。

緊張してたっていい。必死であればいい。
人はそのテンションに気づく能力がある。
その必死さそのものが、物語なのである。
posted by おおおかとしひこ at 16:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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