なぜ登場人物は、テンションが高いのか。
そのほうが魅力的だからだ。
人より少しだけ楽しそうな人は、ついつい見てしまう。
その人の楽しい顔を見ると、こっちまで楽しくなる。
人より少しだけ勇気のある人は、ついつい見てしまう。
その人の勇敢な行動を見ると、こっちまで勇気をもらえる。
人より少しだけ優しそうな人は、ついつい見てしまう。
そしてその人の優しい顔を見ると、こっちまで優しくなる。
人より少しだけ傷つきやすい人は、ついつい見てしまう。
そしてその人の傷つく顔を見ると、こっちまで心を痛める。
人より少しだけ正義感で怒る人は、ついつい見てしまう。
そしてその人の怒る顔を見ると、こっちまで正義感が湧いてくる。
物語は見世物である。
そこに見るべきものがあれば、なんでも見世物だ。
見世物とは、派手な仕掛けやどんでんや爆発やCGのことだけを指さない。
人こそが見世物である。
私たちは、少しだけテンションが高い人がいると、
その人を見てしまう。
ローテンションの時に、
いつも笑っている元気な女の子に勇気をもらうことは、
まれによくあること。(女子なら男女逆に考えてください)
物語に出てくる人は、その役割を果たすことが、
同様に、まれによくある。
どうしてテンションが少し高いのか。
なんもいいことない、たいして生活が変わらない、
どうでもいい我々と何が違うのか。
彼らの存亡に関わる危機があるから、
テンションが上がっているのである。
物語とは、動機のある人物の行動の軌跡である。
その動機は「なんとなく」では人は動かない。
それをしないと死ぬとか、
それをしたら今のダメな自分から脱出できて生まれ変われるとか、
人生を賭ける理由で、
その動機をもって、
その場にいる人ばかりである。
だからテンションが高い。
甲子園でもサスケでもいい。
そういうものをイメージしよう。
人生を賭けた大会では、
ひとつの悲喜こもごもが、人生の悲喜こもごもに相当する。
一回の感情が、人生で二度とないくらいの大きな感情になることがある。
物語とは、
甲子園やトーナメントでない何かで、
「その人にとっての甲子園」が起こることである。
(だからジャンプの漫画がすぐトーナメントになってしまうのは、
ストーリー展開で何かをつくることから逃げているのである、
と糾弾可能だ)
「ロッキー」なら世界戦のチャンスが。
「ルパン三世カリオストロの城」ならかつて失敗したヤマとの再会。
ドラマ「風魔の小次郎」なら初の忍務。
(もう一人の主人公壬生が面白くなり始めたのは、
黄金剣を奪ったあとだということを思い出そう)
僕はよくストーリーを、「一年生のとき」にたとえる。
小一でも中一でも高一でも、
大学一年生でも、社会人一年生でも、
父親一年生でも部長一年生でも、バイト一年生でもいい。
一年生のときは、
どんなことも初めてで、新鮮で、
なにがあっても普通以上に喜んだり、慌てたり、傷ついたり、怒ったりするものだ。
それはそこの空気を学ぶ前だからこそできる、
「素の反応」だと思うのだ。
日本人はすぐ空気に順応する文化の民族であるが、
一年生のときだけは、それを外れていいルールになっている。
だから一年生だけがテンションが高かったりする。
「おれはじめてだよ、すげー」ってなっている。
その時のときめきとか、よろこびとか、失望とか、くやしさとかを、
忘れない方がいい。
物語の登場人物は、
はじめて自分の人生を賭けることに挑む。
人生の一年生のようなものだ。
(そして多分二度と人生を賭けるような危険なことはしないだろう。
それはこの冒険でハッピーエンドになって、
のちのちは幸せに暮らすからである)
だから、物語の人物は、一年生のように、
テンションが高い。
飢えた猛犬のように、切れるナイフのようになっている。
人より少しテンションが高い人は魅力的だ。
思わず見てしまう。
だから見世物としての価値がある。
誰でも一年生の時があった。
二年生三年生になるに従って、
慣れて、「ああ、ハイハイ」と「処理」できるようになったはずだ。
しかしそれじゃあ物語にならない。
物語はすべからく初体験を描くものである、と僕は思う。
だからドキドキし、不安で、必要以上に落ち込み、
だから沢山喜ぶのである。
それを傍から見たら、
テンションが高くて、魅力的に見えていて、
それは見世物になるということなのである。
必死に何かやっている人を、ついつい見てしまう。
必死に何かやっている人を、ついつい助けたくなる。
必死に喜び、悔しがり、泣く人に、ついつい肩入れしたくなる。
見世物というのは、それを見ることである。
(いま松居一代がリアルタイム見世物になっている)
あなたは、見る側にもいなきゃいけないし、
必死になにかやっている地平にもいなきゃいけない。
作家って分裂症だ。
テンションの高いとき、人の頬は紅潮して、目がうるむ。
芝居の出来ない女優に、ちょっと走ってこい、
という演技指導があると聞いたことがある。
目の悪い女優がコンタクトを外すと目が潤むという技もある。
物理的にそういう状態に持っていく荒業だ。
頬のチークだってそういうことだ。
汗が美しいのは、そういうことだ。
緊張してたっていい。必死であればいい。
人はそのテンションに気づく能力がある。
その必死さそのものが、物語なのである。
2017年07月25日
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