2017年07月26日

構造と気分

ストーリーには構造がある。
それを追求するのが、脚本理論の骨子だった。
しかし、
見る人には、構造なんて関係ない。
ただ目の前にあるストーリーを追いかけながら、
面白いとか面白くないとか思っているだけである。

ここでは、
脚本理論的なものを構造、
観客のその場での気持ちを気分として、
対比的に考えてみる。



構造の一番外側には、
テーマやモチーフやコンセプト、
ジャンルや歴史的立ち位置などがある。
新しさとか興行的価値なんかも含むかも。

ストーリーそのものの一番外側には、
三幕構造がいる。
その下には第一ターニングポイント、第二ターニングポイント、
ミッドポイントがいる。
その下に、
オープニング、エンディング、インサイトインシデント、カタリスト、
15分おきのポイント(これは僕が独自に提唱しているもの)がある。

その下に、
メインプロットとサブプロットの関係構造がいる。

その下に、
焦点とターニングポイントがいる。

重ね合わせて、
主人公や脇役の人間関係と、
変化のアークがいる。
その理由として、動機と行動のリストがあるわけだ。


世界観や設定やアイテムや、
伏線やその解消、
名セリフなどは、
その構造の中に現れた、点のようなものである。



さて。
重ねていうが、観客はこの構造には興味がない。
あるのは、脚本を勉強している途中の人だけだ。
(プロは自動的にこの構造を分解しながら見るので、
興味があるというより自動化されている)

観客が興味があるのは、
気分でしかない。

それは物語のテンションとか、
盛り上がってるとか、
惹かれているとか、
面白くなってきたとか、
いい感じであるとか、うっとりしているとか、
憎むべき敵に怒っているとか、
ちょっと泣いたとか、笑ったとか、
緊張してるとか、ほっとしたとか、
焦点に夢中になっているとか、
先はどうなるんだろうと考えていたりとか、
あれはきっとこれに違いないと予想していたりとか、
「分る」と思っていたりとか、
そういうもので占められている。


逆に、
物語を楽しむという行為は、
見ないならば発生しなかった、それらの気分を楽しむものである。

物語は、気分を変えるために見る。

構造を研究するために見ない。



で、本題。


脚本の勉強をしすぎると、
「構造さえ理論どおりになっていれば、
素晴らしいストーリーである」
という錯覚を起こしがちなことである。

構造はしょせん構造であり、
気分のことではない。

しかし過去の名作を見る限り、
それらの構造があるからこそ、
それは名作たるものになってきた。

つまり、構造は必要条件でしかない。

構造がしっかりしていれば名作になるわけではないが、
名作は構造がしっかりしている。
それだけなのだ。


にも関わらず、
構造のことだけに構ってリライトしたり、
構造のことだけチェックしてOKを出すことは、
誤りなのである。

勿論、
構造のことを知らないで気分だけで脚本を書いていくと、
まず間違いなく迷路にはまり、
まともに完結しない迷宮入りのストーリーになることはうけあいである。
(脚本理論とは、そのようにして迷宮入りしてきた先輩たちが、
なんとかしてまともなものを書く為に編み出してきたやり方にすぎない)

だから、脚本理論も知らない素人のいうことを聞いて直しても、
まったくいい方向に直らない。
その場の気分のことを言っているだけだからである。

構造の欠陥を気分で指摘されても、
構造を直すべきなのに壁紙だけを直すのは正解ではない。

そもそも、気分の多くは構造から生じるものである。
気分のことをその場では直せるが、
最終的にそれがどこに帰着するかがストーリーなので、
最終的にそれを直せたとは言えないのだ。

だから、
脚本理論に従って直すということは非常に重要だ。


だが、ここからがこの記事の主張なのだが、
それだけで満足してはいけない、
ということ。

すなわち、
構造がいくら正しく機能している脚本でも、
つまらない脚本である可能性もあるということ。

どういうことかというと、
結局、観客は、気分でものを見るからである。

骨格だけできている家のようなもので、
壁紙も家具もない家が、心地いいわけがない。

気分で家具をおいて、壁紙を貼り、
骨のない家を作ったら、そのうち崩壊する。
骨だけの家は、崩れない強固なものであるが、
住んでてもつまらない。

そのようなこと。



つまり、リライトや完成に至るには、
脚本理論的構造の直しが半分、
気分をうまく作りこむことが残り半分ある、
ということを把握しておくこと。


いかに構造を直すかが、重要なんだけど、
それができたとしても、
焦点がぼけていたり、
目的に興味がもてなかったり、
感情移入に失敗していたり、
台詞がつまらなかったり、
展開が平板であったり、
登場人物に魅力がなかったり、
ばればれの展開であったり、
意外でもなんでもなかったり、
感情の揺れがものたりなかったり、
考えさせることがなかったりしたら、
それは「面白くない」ストーリーなのである。


リライトをするとき、
そもそもその脚本を評価するとき、
構造のことを見ると同時に、
気分のことも見なくてはならない。

そして、どっちを直すべきかを判断し、
その直しが、どっちかに影響を与えているか、
常に監視しなくてはならない。

それを混同するから、リライトは迷路にはまる。


構造的にはあってるが、つまらない脚本がある。
一部魅力的なのだが、全体で見るといびつな構造で、惜しい脚本だ。

このふたつは、だめな脚本である。
優等生だが才能が足りない脚本と、
才能はあるが技術が足りていない脚本だ。

構造的にしっかりしていて、
かつ、気分も最高になるものが、
ただしい脚本である。

それは、場面と全体の関係が、
隅々まで気が届いているか、
ということになるのではないかな。


渦中にいるときほど、
それが見えなくなる。
俯瞰するのはとても難しい。

しかし、俯瞰して、かつ、砂かぶりの最前線の気分まで、
気を配らなくてはならない。

あなたは最前線で最も楽しみ、
最も俯瞰から全体構造を見ていなければならない。

それがストーリーをつくるということ。




(これは、ようやく「てんぐ探偵」を俯瞰できた、
僕の反省点を書いているようなものである。
一部は成功し、一部は失敗しているといまは考えている。
そのうち構成を直し、文章も直すかもしれない。
膨大すぎて時間がかかりそうだけど、
二期をやるなら避けては通れぬ道であることよ)
posted by おおおかとしひこ at 15:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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