構造と気分という言葉は、
抽象と具体という言葉に置き換えることもできる。
たとえば、
「人は自らの愚かさゆえに破滅する」
というプロットないしテーマは、
抽象である。
これをどういう具体で書くかは、
人それぞれだし、ストーリーのバリエーションだ。
シェイクスピアのような悲劇に仕立てあげてもいいし、
ドラえもんの一話にしてもいいのである。
舞台も自由だし、
事件も自由だし、
人間や人間関係も、その変化も自由だし、
独自設定も自由だ。
落ちも展開も自由だし、長さも自由だ。
それらはすべて具体である。
脚本の初心者または中級者は、
「具体的なストーリーの上位概念として、
抽象的なことがある」という脚本理論を知ると、
楽しくなって興奮してしまい、
その抽象を操ることこそ神の手である、
と誤解しがちである。
理論というのはいつもそうだ。
具体物こそが重要なのに、
抽象を操作することが凄いみたいに勘違いするのだ。
量子力学は何に使えるのか、
ということが重要で、
波動関数の収束の哲学的意味は、
実用には関係ないのだ。
(量子コンピューターの作動原理をこないだ調べていて、
思わず笑ってしまった。
量子コンピューターは、結局は確率的振る舞いしかしないので、
確率的にしか解答を出せないのだそうだ。
で、現実的には何十回、何百回と演算させて、
正解っぽい所を正解とするんですって。
オイオイその理論的高尚さに比べて、
バイト100人雇って正解探すみたいな、
原始的な最後のところ、どやねん。
勿論、ノイマン型では解けないオーダーの計算が、
確率的振る舞いにせよすぐ終わるという所が革命なのだが)
で、どんな抽象を振り回そうが、
具体が詰まらないのなら意味はない。
どんなに高尚なことを意図していようが、
現実的な原稿そのものが詰まらないのなら、
それに価値はないのである。
逆に。
具体的なストーリーから、
抽象的な何かがチラ見した瞬間、
ストーリーは俄然面白くなる。
「この作品は、○○というテーマに収束しようとしているのでは?」
と気づいた瞬間とか、
「あそこのあれと、これが関係していて、その後のあれに繋がるのか!」
と分かった瞬間とか、
「あれとこれは、対比の関係になっていた!」
と理解した瞬間とか、
「ああなるほど、最初とラストが結び付いて、
この落ちになるのか」
と腑に落ちた瞬間とかだ。
つまり、
観客から見たら、具体が先で、抽象は奥にいる。
しかし作者から見ると、
抽象が先で、具体がそれを覆い隠すようになっている。
それが間違いだ。
最初は抽象が先で、それを実現するような、
具体を作っていくところまではそうなのだが、
それが一通り出来た(プロット)段階で、
あとは観客の目線で書くようにするのだ。
つまり、具体を楽しんでいるうちに、
まさかこれはこのような抽象的な○○があるのでは、
と、気づかせ、考えたら面白いようにだ。
あなたは抽象を「与える側」になってはいけない。
あなたは抽象を「与えられる側」として書くべきである。
このへんのことがうまくいかないと、
「俺は作者だ、俺の考えた高尚な素晴らしいものを、
おまえら理解しろ」という「おしつけ」が起こり、
しかも「それが何故わるいの?」という無知の開き直りが起こる。
それは、具体が詰まらないストーリーである可能性が高い。
抽象に夢中になりすぎて、
具体が疎かになっている。
それは、
モテ理論を振り回して、
目の前の女の子を見ていないことに等しい。
私たちは作者なのだが、
観客なのだ。
この感覚が難しいのだが、
これが出来ないと上級者ではない。
驚く展開になったときに、観客目線で「なにいっ?」と自分で驚くぐらい。
「ということは、俺は○○だと思っていたのだが、
実は○○ということかっ!」と夢中になって行く感じ。
それくらいに、観客でありたい。
2017年07月27日
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