2017年07月27日

構造と気分2

構造と気分という言葉は、
抽象と具体という言葉に置き換えることもできる。


たとえば、
「人は自らの愚かさゆえに破滅する」
というプロットないしテーマは、
抽象である。

これをどういう具体で書くかは、
人それぞれだし、ストーリーのバリエーションだ。

シェイクスピアのような悲劇に仕立てあげてもいいし、
ドラえもんの一話にしてもいいのである。

舞台も自由だし、
事件も自由だし、
人間や人間関係も、その変化も自由だし、
独自設定も自由だ。
落ちも展開も自由だし、長さも自由だ。
それらはすべて具体である。


脚本の初心者または中級者は、
「具体的なストーリーの上位概念として、
抽象的なことがある」という脚本理論を知ると、
楽しくなって興奮してしまい、
その抽象を操ることこそ神の手である、
と誤解しがちである。

理論というのはいつもそうだ。
具体物こそが重要なのに、
抽象を操作することが凄いみたいに勘違いするのだ。

量子力学は何に使えるのか、
ということが重要で、
波動関数の収束の哲学的意味は、
実用には関係ないのだ。
(量子コンピューターの作動原理をこないだ調べていて、
思わず笑ってしまった。
量子コンピューターは、結局は確率的振る舞いしかしないので、
確率的にしか解答を出せないのだそうだ。
で、現実的には何十回、何百回と演算させて、
正解っぽい所を正解とするんですって。
オイオイその理論的高尚さに比べて、
バイト100人雇って正解探すみたいな、
原始的な最後のところ、どやねん。
勿論、ノイマン型では解けないオーダーの計算が、
確率的振る舞いにせよすぐ終わるという所が革命なのだが)


で、どんな抽象を振り回そうが、
具体が詰まらないのなら意味はない。
どんなに高尚なことを意図していようが、
現実的な原稿そのものが詰まらないのなら、
それに価値はないのである。

逆に。
具体的なストーリーから、
抽象的な何かがチラ見した瞬間、
ストーリーは俄然面白くなる。
「この作品は、○○というテーマに収束しようとしているのでは?」
と気づいた瞬間とか、
「あそこのあれと、これが関係していて、その後のあれに繋がるのか!」
と分かった瞬間とか、
「あれとこれは、対比の関係になっていた!」
と理解した瞬間とか、
「ああなるほど、最初とラストが結び付いて、
この落ちになるのか」
と腑に落ちた瞬間とかだ。

つまり、
観客から見たら、具体が先で、抽象は奥にいる。
しかし作者から見ると、
抽象が先で、具体がそれを覆い隠すようになっている。
それが間違いだ。

最初は抽象が先で、それを実現するような、
具体を作っていくところまではそうなのだが、
それが一通り出来た(プロット)段階で、
あとは観客の目線で書くようにするのだ。

つまり、具体を楽しんでいるうちに、
まさかこれはこのような抽象的な○○があるのでは、
と、気づかせ、考えたら面白いようにだ。


あなたは抽象を「与える側」になってはいけない。
あなたは抽象を「与えられる側」として書くべきである。

このへんのことがうまくいかないと、
「俺は作者だ、俺の考えた高尚な素晴らしいものを、
おまえら理解しろ」という「おしつけ」が起こり、
しかも「それが何故わるいの?」という無知の開き直りが起こる。

それは、具体が詰まらないストーリーである可能性が高い。
抽象に夢中になりすぎて、
具体が疎かになっている。

それは、
モテ理論を振り回して、
目の前の女の子を見ていないことに等しい。



私たちは作者なのだが、
観客なのだ。
この感覚が難しいのだが、
これが出来ないと上級者ではない。

驚く展開になったときに、観客目線で「なにいっ?」と自分で驚くぐらい。
「ということは、俺は○○だと思っていたのだが、
実は○○ということかっ!」と夢中になって行く感じ。
それくらいに、観客でありたい。
posted by おおおかとしひこ at 13:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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