2017年07月28日

能面はなぜ顎が出てるのか

ふと気になって調べてみた。
わざと出している、ということは聞いたことあったが、
なんでやろ、と。

http://www.the-noh.com/jp/trivia/015.html
というところが引っ掛かった。

いかにも演じていることと、演技の話。


僕は表現とは見立てのことである、
と考える派である。

なんでもかんでもリアルなCGやデッサンになっては夢がない。
デフォルメの効いた巨人の星やあしたのジョーで、
幼少期そだった。

人形劇は、リアルでない。
見立てによるものだ。
ミュージカルも、リアルでない。
見立てによるものだ。

人形は生きていないが、
人形でしか表現できない、人生のなにかがある。
人は普段の生活で踊り出さないが、
歌と踊りでしか表現できない、人生のなにかがある。

たとえば疎外された哀しみは、人形のほうが伝わる。
私は人間ではないかもしれないと、
人間ではない人形が悩む物語は、
人形でなくともギリシャ時代から好まれるモチーフだ。
(70年代はヒーローものでもよくあった。
最近だと攻殻か)

たとえば恋のウキウキや喜びは、
ミュージカルのほうが伝わる。
デートに行く前にステップを踏んだことのない人はいない。
いや、実際には踏んでなくても、
心のなかで踏んでいる。

こういうものを心象風景という。
リアルには存在しないけれど、
その人が認識する世界とはこのようなものだ、
と、リアルでないものを使って表現する。
それを、見立てというわけだ。

巨人の星でも、ボールはあんなにリアルでは歪まないが、
あれぐらい凄い魔球、という見立てなのである。



能の面は、何故顎が出てるのか。
それは、「人が演じている」ことの強調ではないかと思った。

僕は子供心にそれが怖いと思った記憶がある。
顎が出てる、怖いと。中に人がいると。

クマモンやふなっしーは、
中に人がいることを悟られないようにする。
能面は逆で、中に人がいることをばらしていく。

ばらした上で、
この人が演じる何かを、何かに見立てて下さいね、
と宣言している。
最初はお面じゃねえかと見ていても、
そのうちそこに、それでしか表現し得ない、
情念が見えてくる。
見立てであり、デフォルメであるわけだ。

もしこれが、顎が出ていない仮面なら?
クマモンやふなっしーみたいな、
「キャラ」になってしまうんじゃない?

人間じゃなくて、キャラという別のものになってしまうんじゃない?

能面は、だから、キャラじゃなくて、
人間を描いているんだね。

あれはキャラの顔じゃなくて、
顔の形をした、情念なんだ。
情念を、仮面に見立てているわけだ。

だから、顎が出ている。


僕は能には明るくないけれど、
おそらく一人の人物で仮面を変えないだろう。
恐ろしいほどの、感情の変化があったときに、
「まるで別人になってしまったとき」に、
仮面を変えて演じるのではないだろうか。
その、まるで別人になってしまうことこそ、
情念というものではないだろうか。


見えないものを見える形にして、
見えないものの見立てに使う。

それが表現である。



これであってるかね。あってなくても、僕はそう思う。
面白い能があったら見てみたいんだけど、
何から何本見ていいか分からない。
困った困った。
posted by おおおかとしひこ at 12:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック