2017年07月29日

【ほらさんへの回答箱】リライトの混乱の避け方

おお、ほらさんはついに短編映画デビューですか、おめでとうございます。
「こちら側」へようこそ。
僕はこれを、「イマジナリラインの向こう側」と呼んでいます。
制作者にならないと、イマジナリラインのこっち側で、
なにが起こっているかわからないものです。


> 最近いよいよオリジナル企画・脚本・監督で短編映画をつくりました。
> ここで学んだことを思い出しながら何度もリライトして、
……
> わりと共通で指摘される「ここが足りない」という部分がありました。
……
> こういうかなり基本的な部分に関して
> 信頼できる数人の知恵を借りてもなお
> 脚本段階で気づけないのはどういった原因があるんでしょうか…?
> 防げた事故のような気がしていて、質問した次第です。

実際のその場にいないとなんとも言えないところですが、
経験者として言えることを書きます。



複数の人が現場で意見を言うことは、
一見合理的なようで、
こと創作においては間違っていると考えます。
それは、「その複数の人は、作者ではない」からです。

共同執筆者なら問題ないかもしれませんが、
ほとんどの「その複数の人」は、
共同執筆者でなく、別の役職の人だと考えます。

ということは、
その人は無意識に自分の職域からものを言っています。
あるいは、自分の職域からものを言っているのか、
職域から離れて個人的な意見を言っているのか、
区別できていないと思います。

区別しながら言っている人はまれです。
もし、「私は業界で働いて来て、
こういう職業だから言えることがある」と
「私は観客としてこう思う。
なぜなら、〇〇のような映画こそ至高であると思っているからだ」
とをわけて議論できる人がいれば、
それは相当な手練れだと思います。
無意識の混同に常に気を配り、
かつそれぞれの立場を明確にしながら、
批評して方向性をつけられるということですから。

で、実際問題、そこまで出来る人はたぶんいません。
たいてい混乱しながらすすみます。
だからまず、
「他人の意見は、その人の中で常に混同されたまま発言されている」
ということを学ぶべきです。


たとえば漫画家と編集者という、
一対一の関係でもそれは起こると思います。
その編集者が編集者として発言しているのか、
単なる読者として反応しているのか、
発言の外から容易に区別する手段はありません。
(それは編集者としての意見ですか?と毎回聞いていくわけにもいかないし)
しかも。
その読者としてのレベルが低い可能性があります。

昔、あるプロデューサーと話をしていて、
「お前の演出はダイナミズムが足りない」と言われ、
その後「生涯ベストワン映画」の話になったとき、
その人のベストが「ダイハード」だと分かって、
萎えたことがあります。
いい映画ですけど、
生涯のベストに選ぶのは、もっと個人の琴線に触れるような、
個人的な映画のような気がするのです。
しかもダイハードの予算とデビュー当時の僕の作品の予算とを比べれば、
プロデューサーなら分る筈なのに、
彼はまったく素人観客として発言しているのだな、
と分かった経験があります。

ということで、
「その他人」の一言、感想、アドバイス、助言苦言は、
「点」でしかないということです。
もし共同執筆者ならば、
「じゃあどうするのがベストか」まで考えてからものを言う為、
「線」で考える筈です。
仮に「冒頭の設定を省略すべきでない」と判断したとしても、
「それはこれと対になっているからである」などと、
構造として考えているはずです。
そのようなオペレーターとしての所見と、
外野の所見は、
分けて考えるべきです。
彼らは、いかに映画に詳しくとも、
所詮外野であると考えるべきです。
当事者、執筆者ではないと。


漫画家と編集者の例では、
関係が濃すぎて、もはや共同執筆者といってもいいくらいの蜜月関係があるような気がします。
昭和のイメージかもしれませんが。


でも映画では、そういう関係はなくて、
作者は放り出されるだけです。


だから作者は、能力が高くなくてはならないのです。
結局は失敗して経験を積むしかないと考えます。
(しかし今の日本は、
何度も失敗させてくれる環境ではないのでそれも難しい)



僕が一番オススメなのは、
「空で朗読する方法」ではないかと考えます。

部屋の中だと閉じてしまうので、
外でやるといいです。
川原とか、ぶつぶつ言っても怪しまれないところで、
一人で朗読してみるといいでしょう。
その時の脚本を手に持ってもいいですが、
できるだけ、記憶だけでやるといいです。
部屋の中でやらないほうがいいのは、
誰か通行人を視界にいれるためです。
「その人がはじめてこのストーリーに触れる」とイメージしやすいからです。


で。自分やそのイメージの中の他人が、
一番最初の観客になっていると想定し、
朗読で語り聞かせるイメージでやってみるといいです。

何回もやると慣れてしまうので、
ここぞというときに回数限定でやるといいかな。
つまり、一気読みの経験を朗読でやってみる、
というやり方です。

単独でのイメージは、ある程度想定しているものだけど、
「それを通しで見た時の想定」というのは、
なかなかできていないことが多いです。
しかもリライトしまくっているときは、
作品の外に視点が出ていないことが多いです。


僕はたまに家の近くの多摩川で散歩しながら、
ひたすら頭の中で、
頭からケツまで上映をすることがあります。
(ときどきぶつぶつ言ってます)

その人たちに感情移入できるのか、
おれはそのストーリーを見て夢中になれるのか、
おれはそのストーリーを見終えて満足できるのか。
そういうチェックをするにはいつもの環境では難しいので、
「別の場所」でやってみるのがいいですね。

昨日西尾維新のやり方を聞いて、いいなあと思ったのが、
旅行先で三十分まず散歩をして、それから執筆、二時間やって寝る。
それを2セットか3セット、らしい。
旅行先ではいつものように8時間書かずに、
環境を変えることを優先するらしいです。
おそらく、脳内上映をやるための方法論だと考えます。


あとは、
何人か協力者がいるときにかぎりますが、
「その場で頭からケツまで演じてもらう」
というのもいいかも知れません。
意外と、
自分の想定していたことを、
その演者(俳優でなくスタッフでしょうが)は、
理解していないことが多いです。
そのギャップに気づくことができます。

(これは演劇の方法論ですね。
台本が稽古はじまりの時点で完成していない時、
作者は俳優に演じさせながら考えて台本をつくっていく、
なんてこともたまにやります。本来は反則です)

どちらも、「自分とは関係ないものをなるべく入れて俯瞰する」
というやり方だと考えます。

つまり、仮想の共同執筆者を召喚する、
というやり方のような気がします。


責任のないアドバイスほど、
作者を振りまわすものはありません。
僕は、映画「いけちゃんとぼく」で、
「三幕の野球対決を編集で切ってはどうか」
と発言したプロデューサーのことを忘れないでしょう。
「少年の成長」というストーリーの軸を理解したうえで、
ストーリーをまとめる為に行われる編集会議とは、
とても思えない発言でした。
どうやってケツを拭くつもりだったのか、
いまだに分かりません。
ケツを拭くつもりがないから、
そんな無茶苦茶な発言ができたのだと考えています。
つまり彼は作者ではありません。


ということで、
ケツを拭かないつもりの発言は、
一人でも混乱させるものです。
(一人の中でも、複数の方向性が無意識に混同されています)
さらにその人数が増えるとカオスになるのは、
火を見るよりあきらかです。



まああとは、「初めての経験では、必ず失敗する」
ということを覚えておくといいです。

これは思い込みにすぎないのか、
これは客観的な意見なのか、
自分で判断できる冷静さが、
最初からあるとは思えません。

僕が数を書け、とよく言うのは、
その疑似経験を積め、ということでもあります。

僕が三題噺を100つくる練習を、
社会人一年目にしたことは書いたかと思います。
CMの企画を出すときは今でも、
短編映画になるようなプロットを必ず考えるようにしています。
「どれだけ普段からやっているか」でしかないです。


数を書いておくと、
使える技の数が増えていきます。
一個の技を成功させるには、
その「つくり」からやらないとダメで、
その成功パターンが一個しかないなら、
別のストーリーを書くことは難しいかもしれません。
なので、成功パターンをたくさん考えるのは、
数を書く上で強制的にやっておくべきことなのです。

一回しか成功したことがない人は、
そのやり方以外が怖くて、試すのもやめるでしょう。
複数回成功している人なら、
あれがダメならこれでやってみるか、
と、切り替えていけるはずです。
合わせ技で一本取るやり方もあるでしょう。

あるいは、沢山失敗している人は、
これ、前にも失敗したパターンに似ている、
と気づき、前もって布石を打てるかも知れません。
数多くやっているならば、
反省会もたくさんしているでしょうから、
その脱出法も編み出しているはず。
(編み出していないなら、反省会が足りてない)


実は僕が「てんぐ探偵」を連作短編にしているのには、
そういう「練習」という意図があったりします。
かつて書いたけど捨てるには惜しいストーリーを、
その中で復活させたものもあります。
探偵ものなら、
「毎回ゲストが主人公になるから、毎回違う短編になるぞ」
という計算もありました。
これは「ブラックジャック」から学んだこと。
たぶん手塚も、かつて没になった別の話を、
ブラックジャックの中で復活させたことがあると想像します。


もし練習をするのが難しいなら、
続きものでない、
一話完結シリーズを1クール書いてみる、
というのも練習になるかもしれません。

それだけ数をやらないと、
見えてこない領域があると思います。
勿論、いろんな(共同執筆者じゃない)人に見せて、
いろんな意見を聞くといいでしょう。
それは全て今後のためのシミュレーションになると考えます。





どうせ、ヤフレビュや2ちゃんで色々言われます。
ツィートされまくります。
文春や週刊ポストで書かれることもあるでしょう。
アマゾンや映画.comでも言われます。
言われ慣れてください。

慣れないけど。

「その意見は、すでに自分の批評に入っている」
というくらい、自分の作品に向き合ってみてください。
自己批評が一番厳しければ、
それ以上の批評に出会えなくて悔しいと思うかもしれません。
(「いけちゃんとぼく」のときはそうでした。
どの感想、批評も、
「それはわかって公開したのだ」というものばかりで)




いばらの道です。
それが映画をつくることだと思います。

それでもなお、価値あるテーマに出会ったとき、
その痛みを覚悟して、書いていくしかないですね。
それが前向きに生きていくということです。

人生は映画で、映画は人生です。
posted by おおおかとしひこ at 23:53| Comment(1) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
丁寧な回答ありがとうございました!

まさに、数を書く修行が足りてないことも原因だったように思います。
いろいろなラッキーが重なって撮れた映画だったので、そのチャンスに見合う筋肉ができていなかったのかもしれません。

ベスト映画がダイハード?事件については僕も耳が痛いところがあり、
僕もダイハード側だったというか、
心の琴線よりも「おもろい映画や!」というところばかり目指していたかもなーと反省しました。

映画は人間を描くもの、というのが前より1ミリだけ身にしみたかもしれません。

ご回答ありがとうございました!辞めずにがんばります!
Posted by ほら at 2017年07月30日 16:35
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