その本質はなにか?
それを経験する前と経験したあとで、
全く見方が変わってしまうこと。
それは、
物語が「体験による認識の変化」だからだ。
もし物語が変化を扱わないのなら、
本質ビフォーアフターなるものは存在しない。
たとえばゲームはそうだろう。
将棋とは読み合いと戦術である、
なんて風に、本質を語ることは、
将棋体験前と体験後で差がない。
深みの違いはあるかもだけど。
写真や絵もそうだろう。
体験前と体験後なんてものはない。
見れば分かるからだ。
時間軸のあるもの、音楽は?
体験前と体験後の変化はある程度ありそうだけど、
音楽は一回で終わりじゃないから、
リピート前提。
知見が深くなって行くことはあるかも知れないけれど、
ビフォーアフターの本質が違うこともあるまい。
そもそも音楽は変化をテーマとはしない。
「○○という感情」という点を、
線をかけて表現するジャンルのような気がする。
これらに比べて、物語だけが、
変化そのものを扱う。
とくに映画などは、一回しか見られないものだ。
勿論リピートはあるだろうけれど、
殆どの映画は一見である。
だから。
点ではなく線の変化で勝負するのである。
ほらさんへの回答で書き忘れたのだが、
複数の人がやいやい言うとき、
ビフォーの話とアフターの話がごちゃごちゃになることもある。
「私が一番理解している」と言う人ほど、
アフターで話をする。
ドラマ風魔の小次郎の本質は、
ビフォーにおいては「二つの陣営のバトル」である。
アフターにおいては「一人の少年の成長」じゃないかな。
ビフォーの人にアフターの話をしても通じないし、
アフターの人にビフォーじゃ物足りない。
だから話が混乱する。
とくにリライトの現場では、
アフター前提で議論がされることが多いので、
ビフォーの視点が欠落していることが多い。
それはビフォーから見て面白そうなのか、
が、アフターから書き消されることが多い。
ほらさんが体験したことも、おそらくそれが原因ではないかと考える。
角川糞宣伝部なんて、
どんでん返しを理解したあとのアフターの本質を、
予告でやるんだぜ。
それが正気の沙汰でないと、
端から見ればわかるのに、
当事者だけが気づかないんだろうね。
コンセプト、ログライン、テーマでいうならば、
コンセプトはビフォーの本質である。
ログラインはビフォーとアフター両方を含む。
テーマはアフターだ。
だから、
「この話のテーマは○○です」
なんてことを、見る前の人に言っても意味がない。
「この話のコンセプトは○○なんですよ」と、
見終えた人に言っても、だいぶ前の話で詰まらない。
つまり、
ビフォーとアフターは混在して混同され、
混乱していて、互いに互いを幸せにしていない。
企画書や宣伝はビフォーの本質を。
解説や鑑賞はアフターの本質を、
それぞれ語るべきじゃないかと思う。
それを素晴らしい形にするにはどうすればよいか?
ビフォーから見て完璧に。
アフターから見て完璧に。
それがいいんじゃないだろうか。
それは、変化を娯楽の正体とする、
殆ど唯一の芸術である、
物語を扱うための、作法ではないかなあ。
相変わらず下ネタにたとえよう。
童貞と話すときと、経験者と話すときは、
セックスの意味が違う。
それらを混同していてはうまく話が通じない。
あなたはどちらからも、話が出来なければならないし、
その人はどちらから話をしているか見極めて、
どっちのセックス話も、うまく纏めなければならない。
そしてあなたが扱うものは、
はじめてのセックスにおける認識の変化だ。
2017年07月30日
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