そういえばしばらくバガボンド見てないなと突然思い出した。
あの農業編はひどかったなあ。
なぜか。
目的を見失っていたからだ。
初心者の誤った考え方に、
「主人公は葛藤しなければならない」
がある。
「内面の深みを描き、成長する」
ということをやろうして。
その志はよろしい。
しかし方法論を間違ってはいけない。
葛藤とは、
「どうしていいか分からず、放浪する」
のことではない。
「明確な目的を持っているときに、
ふたつ(以上)の選択肢を与えられ、
どちらも一長一短で、
どちらも目的のなにかを実現できるが、
何かは失うような選択肢であり、
そのどちらかを、痛みを伴いながら、
自己責任を覚悟して選択すること」
のことである。
バガボンドの農業編は、
「どうしていいか分からない」という状態を、
延々と見させられた、詰まらないパートであった。
「それは武藏の葛藤であり、
内面の成長に必要だったのだ」と、
作者は言い訳するかも知れない。
しかし成長の軌跡を考えられなかった、
作者の閃き待ちに、何故我々が付き合わされなければならんのか。
もし成長に必要な試練ならば、
明確な目的を持った状態で、
「剣を捨てて農業をやるのか、
農業を捨てて剣をやるのか、選べ」
という、
(間違った意味ではなく本来の意味の)葛藤が必要だったはずだ。
何故農業編が詰まらないのか。
武蔵に目的がないからだ。
「いっぱしの武士になる」というのが、
武藏の当初からの目的である。
吉岡一門との決闘は、
その過程でやむにやまれぬものとして描かれた。
次は?
それを見失ったから、迷走したのだ。
たとえば、
「伊織を育てること」が当初の目的を阻むから、
剣を捨てて武士になるのを諦める、
というドラマがあってもよかった。
何故なかったのか。
目的が変わるのをターニングポイントという。
吉岡一門との決闘は、
ターニングポイントではない。
「状況の一変(怪我も含め)」でしかなく、
武藏の目的と焦点が、
ターニングしたわけではない。
武藏の目的はなにか。
物語の焦点はなにか。
(たとえば、武蔵は武士を諦めて農家になるのか?
でもいい。面白いかどうかは別だけど)
それが不明なまま、
なにゆえ農業編が続いたのか。
作者が主人公の目的を見失い、
感情移入を失ったからだ。
理想であれば、
農家に落ち着いたあと、
ふつふつと「武士になること」の目的について、
次どうしようかを考える。
「吉岡一門全滅は、誰もが知るところだ、
復讐を避ける意味でも、どこかの剣客として身分を貰おう」
などのようにだ。
「しかし肉体を癒さねばならない。
まずは怪我が治るまで大人しくしよう」
と、目的を明確にさえすれば、
退屈な農作業でも見ていられるものだ。
ついでに、「鍬を振る動作は、剣に似ている」と発見し、
農業しながら剣の稽古をする、
なんてエピソードだって創作できたはず。
それもこれも、「剣客になる」という明確な目的があればこそだ。
物語は、目的が必要である。
そうでなければ、何をしていても詰まらなくなる。
目的は、していることの張り合いだ。
バガボンドの農業編は、
張り合いのない放浪でしかなかった。
それはどういうことかというと、時間停止である。
物語は、事態が転がる変化を描く。
時間停止を描かない。
時間停止を描くなら、「一年後」などと、
時間停止を省略し、
「次に目的を見いだす」ところから再開するものである。
そのような、展開の常識を見失った作者
(井上雄彦なのか吉川英治かは、原作未読のため不明)
の、「どうしていいか分からないよう」
を如実にリアルタイム中継したのが、
農業編の正体である。
なぜそれを断言できるかって?
おれもそれやったことあるからだ。
「どうしていいか分からない」は、
作者の所で止めておきなさい。
主人公が迷っても構わない。
次どうしていいか分からないときは、
主人公の目的をもう一度思い出しなさい。
次に何をすべきか、考えればわかる。
成功率が低かろうと、主人公は前に進む。
主人公が前に進むのを描くのが物語だ。
停滞するのを描くのは物語ではない。
「前に進む」とは、「目的との距離を縮めること」である。
迷走とはつまり、
「目的との距離を見失って、
前に進んでるのか後退してるのか横に進んでいるのか、
地図が分からなくなった状態」のことだ。
であるならば、
改めて目的を再確認し、
そのためにはどうするのが良いのか判断し、
行動を再開させればいいのである。
葛藤とは、停滞ではない。
それは誤りだ。
正しい葛藤とは、
決断による前進のことである。
あと、
「その目的が当初はいいと思っていたけれど、
感情移入できなくなってしまった」というのが、
まれによくある。
そのことについての対策を、次の記事に書く。
2017年07月31日
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