手の話、つづき。
ここ半年でようやくブラインドタッチ(カタナ式に限る)
がちゃんと出来るようになったので、
自分を観察していて気づいたこと。
タイピング(ブラインドタッチ)は運動性記憶である。
これについては論を待たない。
運動ということは、依存症があるということ。
つまり、やめたときに禁断症状が出るということ。
世の中の運動を見てみよう。
ランニング。これは癖にしないと出来ない。
癖になると「走らないと気持ち悪い」という。
体が走るような循環が出来ているので、
その循環がないと色んなものが渋滞を起こす。
空手や武術の稽古、
バレリーナの基礎運動も同じだ。
毎日やる前提のものだから、
やらないと気持ち悪い。
体が毎日やる前提の循環が出来ている。
音楽も同じだ。
ピアノは3日やらないと、指の感覚が変わるという。
これは指の運動と考えると分かりやすい。
ランニングと同じことが指で起きている。
ドラマーは毎日叩かないと気持ち悪くて、
机を叩いたりするという。禁断症状だ。
肉体労働する人、家事をする人、
実はほとんど同じことがあるのではないか?
体を動かす習慣は、
体に入っていて、
動かさないと気持ち悪いように出来ているのではないか。
たとえば重病のときでも、
毎日の散歩をやめなかったとか、
毎日の稽古をやめなかったとかという、
そういう逸話は沢山聞いたことないか。
運動性の記憶は、
それを毎日やる前提で体が循環する。
頭が要求する習慣ではない。
体の神経が運動を欲するようなものだ。
つまり依存と、仕組みが変わらないと思うのだ。
さてタイピングだ。
タイピングは運動性記憶である。
目で見ないタイピングは、指で覚える。
しかも言葉の連接、音の流れを指から指への導線として覚える。
ほとんど暗譜だ。
暗記ではだめで、指が暗譜をする。
そういう回路を指(から腕)に作ることが、
配列を覚えるということ。
だから、一個覚えた人が他の配列をやろうとしない。
テニスが出来る人は空手をやらない。
だから、やらない日があると気持ち悪い。
だから、毎日やってしまう。
運動依存症という言葉はないが、
タイピングには禁断症状があり、依存症がある。
ブログ更新とか、検索とか、メールとか。
それって、タイピング依存症なんじゃね?
タイパーという人たちがマイナーだけど沢山いる。
タイピング速度を競う人たちだ。
それは文章を速く合理的に書きたいのではなく、
「ただ速くなりたい」のだ。
何のために?
多分、依存症だからだ。
そうしないと気持ち悪くて禁断症状が出るからだ。
(ゲーム依存症もこれに近い。
「コントロールする運動」の依存症だ)
あるいは、配列替えをずっとしている人がいる。
タイピング依存症だから、
その整理をずっとしている人、みたいなことだと考える。
家事依存症の人が、毎日台所の道具の配置替えを微妙にする感じ。
メンテナンスし続ける感じ。
イチローですら、自分のフォームについて、
あれだけのことを毎日考えている。
イチローは野球依存症でありバッティング依存症だ。
足の位置とか握りとかタイミングとかを、
ずっと微調整し続けている。
それは、配置替えを微調整し続けている人と、
同じことが起こっていると考える。
というのも、
カタナ式を毎日触ってきたので、
最近飛鳥配列を練習したら、
猛烈にカタナ式を使いたくなる衝動があることに気づいたのだ。
空手家がテニスを覚えて、
空手はやらなくてもいいのに、
基本型をやらないと体が気持ち悪い感じ、
みたいなたとえなら分かるかも。
運動は依存症だ。
やり過ぎなければ、依存症は悪ではない。
運動なら体が限界あるし、超回復もあるよね。
酒やクスリの悪いところは、限界も超回復もないところだね。
で。
ようやく本題。
手を作る話。
昔のまだタイピングで企画をしない、
手書きでやる方法論について説明した。
僕はいまだにこれで、
だから考えるときもアイデアを発展させるときも、
第一稿も、全てこれである。
つまり僕は、手書き依存症だ。
「手が出来ている」というのは、
要するに、
ランナーが毎日走らないと気持ち悪い、
と言うのと同じで、
「毎日何かを書かないと気持ち悪い」ということが存在していることの証明だ。
写経を手書きでするわけではない。
「何かを考えついてメモをし、
良ければ纏めておくこと」が、
手の習慣(依存症)になっているということ。
よく、
「どうやったら沢山書けますか」という小説家志望の人の質問に、
「毎日書きなさい。習慣にするのです」と答えるプロがいる。
「習慣に出来るわけないよ」と普通は思う。
しかし、たとえば僕は一年浪人して大学に合格したとき、
「もう毎日勉強しなくていいぞ!」と思ったと同時に、
「今日勉強しないのは、なんだか気持ち悪いな」と思った記憶がある。
つまり、机にかじりついて、考えたり鉛筆を動かすことが、
習慣(依存症)になっていたわけだ。
映画やドラマを毎日撮影していたときは、
クランクアップしても、
まだ早起きしてしまう習慣がついていた。
運動性記憶は、やめたあとだいぶ経っても思い出したりする。
クスリはやめてもだいぶあとにフラッシュバックがある。
もう風魔は撮ってないのに、
いまだにたまに撮影いかなきゃと体が起きることがある。
(認知症の人に、かつてやっていた運動をさせると、
体が覚えているので出来るそうだ。
認知症の人に日本軍の銃を渡したら、
勝手に整備を始めたという話もある)
ということで、
「手で書き、考える」は、
僕の習慣になっている。
受験勉強のストレスなみに、入社当時強制されたので、
今や欠かせない習慣になっているわけだ。
毎日書く小説家も、たぶん同じだと僕は思う。
手書きだろうとタイピングだろうと。
そういえばこのブログを始める前、
いけちゃんとぼくが終わったあと、
手書きでよく毎日脚本論をメモしていた。
書いてるうちに膨大になり、
二冊分の本の原稿として自主的に纏めたことがあった。
(今思えば、ここの論のほうが進化していると感じる)
「ストーリーとは何か、どうやったらうまくいくか」
と考える僕の手書きの習慣(依存症)は、
今やフリック入力という運動に変わっただけである。
つまり、僕は今はブログ依存症であるといえる。
で、手書きのほうの習慣(依存症)もまだ続いていて、
それは作品作り(仕事だろうが、自主的に書いてるてんぐだろうが)
のほうで使っている。
人は何らかの依存症である。
それは精神の病のことではなく、
体の循環の問題のような気がする。
つまりあなたは、手を依存症にしなければならない。
そうすれば、
毎日書けるよ。
最初はキツイね。
ダイエットを習慣にするくらい。
英語を毎日リスニングする習慣をつくるくらい。
空手の型を毎朝やるくらい。
筋トレに通う習慣をつけるくらい。
禁煙くらい。
やめたら気持ち悪い、という感覚になるのはどれくらいかな。
二週間?一ヶ月?二ヶ月?
人にもよるし、運動依存症の度合いにもよる。
僕はカタナ式のブラインドタッチは、たぶん一週間程度で出来た。
飛鳥配列のブラインドタッチには一ヶ月以上かかりそう。
(常用するかは出来るようになってから考えるつもり)
時々、ゲーセンで昔ハマったゲームの操作感を思い出すことがあり、
最近YouTubeで動画を漁ってその感覚を満たすことをやったりする。
それはツインスティックを使う特殊なゲームで、
それでしか味わえない手の感覚があって、その依存症だったのだねえ。
ほとんどの趣味、
たとえば釣りとかバイクとか軽めのスポーツは、
「それをしたい運動神経」を慰めるためにやるんじゃないか。
ということで。
あなたは物語を考えたり、書く依存症になろう。
習慣をつけるんだ、と言われても、
そんな書くことないし、というのが普通だ。
でもやるんだ。
ある程度書くための膨大な準備を先にしておいてもいい。
一ヶ月毎日書いてみよう。
一時間から二時間を目安に。
休んじゃダメ。
今日やらなかったから明日4時間やるとかもダメ。
「毎日やらないと気持ち悪い」を作るのが目的。
「作家としての手を作る」が、
まずスタートラインだろうね。
スポーツマンのスタートが「毎日走る」みたいなことと同じさ。
出来不出来はそのあと。
そのときになって才能がないと判明することもある。
それでも人は何かを書いていく。
書き続けられれば、少しずつ成長するものだ。
何せ依存症回路が一回出来たら、
やめろと言われてもやってしまう。
書かない人は、ここで脱落して亀に抜かれるんだよな。
2017年08月01日
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