2017年08月01日

手の話:タイピングは運動性依存症だ

手の話、つづき。

ここ半年でようやくブラインドタッチ(カタナ式に限る)
がちゃんと出来るようになったので、
自分を観察していて気づいたこと。

タイピング(ブラインドタッチ)は運動性記憶である。
これについては論を待たない。
運動ということは、依存症があるということ。
つまり、やめたときに禁断症状が出るということ。


世の中の運動を見てみよう。

ランニング。これは癖にしないと出来ない。
癖になると「走らないと気持ち悪い」という。
体が走るような循環が出来ているので、
その循環がないと色んなものが渋滞を起こす。

空手や武術の稽古、
バレリーナの基礎運動も同じだ。
毎日やる前提のものだから、
やらないと気持ち悪い。
体が毎日やる前提の循環が出来ている。

音楽も同じだ。
ピアノは3日やらないと、指の感覚が変わるという。
これは指の運動と考えると分かりやすい。
ランニングと同じことが指で起きている。
ドラマーは毎日叩かないと気持ち悪くて、
机を叩いたりするという。禁断症状だ。

肉体労働する人、家事をする人、
実はほとんど同じことがあるのではないか?
体を動かす習慣は、
体に入っていて、
動かさないと気持ち悪いように出来ているのではないか。

たとえば重病のときでも、
毎日の散歩をやめなかったとか、
毎日の稽古をやめなかったとかという、
そういう逸話は沢山聞いたことないか。

運動性の記憶は、
それを毎日やる前提で体が循環する。
頭が要求する習慣ではない。
体の神経が運動を欲するようなものだ。
つまり依存と、仕組みが変わらないと思うのだ。


さてタイピングだ。
タイピングは運動性記憶である。
目で見ないタイピングは、指で覚える。
しかも言葉の連接、音の流れを指から指への導線として覚える。
ほとんど暗譜だ。
暗記ではだめで、指が暗譜をする。
そういう回路を指(から腕)に作ることが、
配列を覚えるということ。
だから、一個覚えた人が他の配列をやろうとしない。
テニスが出来る人は空手をやらない。
だから、やらない日があると気持ち悪い。
だから、毎日やってしまう。

運動依存症という言葉はないが、
タイピングには禁断症状があり、依存症がある。

ブログ更新とか、検索とか、メールとか。
それって、タイピング依存症なんじゃね?

タイパーという人たちがマイナーだけど沢山いる。
タイピング速度を競う人たちだ。
それは文章を速く合理的に書きたいのではなく、
「ただ速くなりたい」のだ。
何のために?
多分、依存症だからだ。
そうしないと気持ち悪くて禁断症状が出るからだ。
(ゲーム依存症もこれに近い。
「コントロールする運動」の依存症だ)

あるいは、配列替えをずっとしている人がいる。
タイピング依存症だから、
その整理をずっとしている人、みたいなことだと考える。
家事依存症の人が、毎日台所の道具の配置替えを微妙にする感じ。
メンテナンスし続ける感じ。

イチローですら、自分のフォームについて、
あれだけのことを毎日考えている。
イチローは野球依存症でありバッティング依存症だ。
足の位置とか握りとかタイミングとかを、
ずっと微調整し続けている。
それは、配置替えを微調整し続けている人と、
同じことが起こっていると考える。


というのも、
カタナ式を毎日触ってきたので、
最近飛鳥配列を練習したら、
猛烈にカタナ式を使いたくなる衝動があることに気づいたのだ。
空手家がテニスを覚えて、
空手はやらなくてもいいのに、
基本型をやらないと体が気持ち悪い感じ、
みたいなたとえなら分かるかも。


運動は依存症だ。

やり過ぎなければ、依存症は悪ではない。
運動なら体が限界あるし、超回復もあるよね。
酒やクスリの悪いところは、限界も超回復もないところだね。


で。

ようやく本題。

手を作る話。

昔のまだタイピングで企画をしない、
手書きでやる方法論について説明した。
僕はいまだにこれで、
だから考えるときもアイデアを発展させるときも、
第一稿も、全てこれである。

つまり僕は、手書き依存症だ。

「手が出来ている」というのは、
要するに、
ランナーが毎日走らないと気持ち悪い、
と言うのと同じで、
「毎日何かを書かないと気持ち悪い」ということが存在していることの証明だ。


写経を手書きでするわけではない。
「何かを考えついてメモをし、
良ければ纏めておくこと」が、
手の習慣(依存症)になっているということ。

よく、
「どうやったら沢山書けますか」という小説家志望の人の質問に、
「毎日書きなさい。習慣にするのです」と答えるプロがいる。
「習慣に出来るわけないよ」と普通は思う。

しかし、たとえば僕は一年浪人して大学に合格したとき、
「もう毎日勉強しなくていいぞ!」と思ったと同時に、
「今日勉強しないのは、なんだか気持ち悪いな」と思った記憶がある。
つまり、机にかじりついて、考えたり鉛筆を動かすことが、
習慣(依存症)になっていたわけだ。

映画やドラマを毎日撮影していたときは、
クランクアップしても、
まだ早起きしてしまう習慣がついていた。

運動性記憶は、やめたあとだいぶ経っても思い出したりする。
クスリはやめてもだいぶあとにフラッシュバックがある。
もう風魔は撮ってないのに、
いまだにたまに撮影いかなきゃと体が起きることがある。
(認知症の人に、かつてやっていた運動をさせると、
体が覚えているので出来るそうだ。
認知症の人に日本軍の銃を渡したら、
勝手に整備を始めたという話もある)


ということで、
「手で書き、考える」は、
僕の習慣になっている。

受験勉強のストレスなみに、入社当時強制されたので、
今や欠かせない習慣になっているわけだ。

毎日書く小説家も、たぶん同じだと僕は思う。
手書きだろうとタイピングだろうと。


そういえばこのブログを始める前、
いけちゃんとぼくが終わったあと、
手書きでよく毎日脚本論をメモしていた。
書いてるうちに膨大になり、
二冊分の本の原稿として自主的に纏めたことがあった。
(今思えば、ここの論のほうが進化していると感じる)
「ストーリーとは何か、どうやったらうまくいくか」
と考える僕の手書きの習慣(依存症)は、
今やフリック入力という運動に変わっただけである。
つまり、僕は今はブログ依存症であるといえる。

で、手書きのほうの習慣(依存症)もまだ続いていて、
それは作品作り(仕事だろうが、自主的に書いてるてんぐだろうが)
のほうで使っている。

人は何らかの依存症である。
それは精神の病のことではなく、
体の循環の問題のような気がする。


つまりあなたは、手を依存症にしなければならない。
そうすれば、
毎日書けるよ。

最初はキツイね。
ダイエットを習慣にするくらい。
英語を毎日リスニングする習慣をつくるくらい。
空手の型を毎朝やるくらい。
筋トレに通う習慣をつけるくらい。
禁煙くらい。
やめたら気持ち悪い、という感覚になるのはどれくらいかな。
二週間?一ヶ月?二ヶ月?

人にもよるし、運動依存症の度合いにもよる。

僕はカタナ式のブラインドタッチは、たぶん一週間程度で出来た。
飛鳥配列のブラインドタッチには一ヶ月以上かかりそう。
(常用するかは出来るようになってから考えるつもり)

時々、ゲーセンで昔ハマったゲームの操作感を思い出すことがあり、
最近YouTubeで動画を漁ってその感覚を満たすことをやったりする。
それはツインスティックを使う特殊なゲームで、
それでしか味わえない手の感覚があって、その依存症だったのだねえ。

ほとんどの趣味、
たとえば釣りとかバイクとか軽めのスポーツは、
「それをしたい運動神経」を慰めるためにやるんじゃないか。



ということで。

あなたは物語を考えたり、書く依存症になろう。

習慣をつけるんだ、と言われても、
そんな書くことないし、というのが普通だ。
でもやるんだ。
ある程度書くための膨大な準備を先にしておいてもいい。
一ヶ月毎日書いてみよう。
一時間から二時間を目安に。
休んじゃダメ。
今日やらなかったから明日4時間やるとかもダメ。
「毎日やらないと気持ち悪い」を作るのが目的。

「作家としての手を作る」が、
まずスタートラインだろうね。
スポーツマンのスタートが「毎日走る」みたいなことと同じさ。

出来不出来はそのあと。
そのときになって才能がないと判明することもある。
それでも人は何かを書いていく。
書き続けられれば、少しずつ成長するものだ。
何せ依存症回路が一回出来たら、
やめろと言われてもやってしまう。

書かない人は、ここで脱落して亀に抜かれるんだよな。
posted by おおおかとしひこ at 11:46| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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