2017年08月01日

動機とは拘りのことである

何故主人公(や他のキャラクター)は、
そこまでそんなに強い思いがあるのだろう。

勿論、落ちたら死ぬみたいな、後ろに締め切りのあるよう状況で追い込めば、
強いとか弱いとか言ってられないかも知れない。

しかし、そうではない、その人の内部から沸々と沸き上がる、
その情熱の源泉はなんなのだろう。
それは、その人の心の中で解決していない何か、ではないか?


渇きとか不足とか、欠けていることとか、
人はそれを埋めようとして行動する、
ということは既に書いた。

それだけではないかも知れない。
「拘り」こそが原動力にならないか?
拘りという言葉は、近年いい意味で使われる誤用が多い。
こだわりの味、みたいな使われ方。
しかし語源は泥に拘束される拘泥という言葉が示すように、
心にある、よくないわだかまりのことである。

心にある、何かの傷。
心にある、何かのわだかまり。
心にある、やり直したいこと、言い直したいこと。

たとえば、
「死ぬ前に誰かに伝えたいことがあるから成仏できず、
生前はなかなか言えなかったことを言いに行く、
幽霊もの」というのはもはやひとつのジャンルだ。
それは、心の中のわだかまりを、溶かすことこそが動機になるわけだ。

人には後悔がある。
人には失敗がある。
人には反省がある。
その傷のようなものに触れられたとき、
人はそれをどうにかしたいと思う。

それはその人の根源に根差せば根差すほど、
それをどうにかしたいと行動する動機になるのではないか。

先の幽霊ものと似たジャンルに、
タイムスリップもので、
「あの時出来なかったことをもう一度やるチャンスに恵まれる」
というやつがある。
両方含めて「やり直しもの」というジャンルにしてもいいくらいだ。

古くは映画「タイムマシン」、
最近だと(最近でもないが)「オールユーニードイズキル」もあったね。
「バックトゥザフューチャー」は、
「行動しないと消えちゃう」という後ろから追っかけてくるのが、
基本の動機だが、
「惚れられてしまった失敗を取り返す」という、
「やり直しもの」の行動動機とほぼ同じであった。
心の中のわだかまりというよりは、
コメディ的な要素であるが。
(ちなみにこの映画は、SFよりもアクションよりも、
まずコメディにジャンルが分類されるべきだ。
80年代はコメディにSFXという新しい技術が入ってきた時期でもあったわけだ)


僕がドラマ風魔の前に出した、
4クール女子向けの特撮番組の企画(勿論魔法少女もの)があって、
告白シーンから始まり、返事を聞かないまま、
車に跳ねられて死んじゃうというオープニングだった。
一年前に時間を戻すから、今度こそその日より前に告白を成功させる、
というミッションが与えられる、
「やり直しもの」の大枠のプロットを立てたことがある。
一年前に経験したことを、少しずつやり直しながら、
人々を助ける羽目になる、という枠組み。
なかなか面白いと思って、蔵にまだ入れたまま。



勿論、時空を歪めなくても、
似たようなことは可能だ。
「ルパン三世カリオストロの城」では、
「かつて失敗したヤマへの再戦」が、
ルパンの大きな動機になる。
勿論クラリスを助けたいという、行き掛かり上の目的もあるけれど。

つまりクラリスや指輪の件は、外的動機で、
ゴート札への拘りは内的動機だ。

相変わらず「ロッキー」を例に出すと、
ロッキーの外的動機は、
「尊敬するチャンピオンのスパーリングパートナーになる」
ぐらいであった。
事務所に呼び出されたときまでは、ロッキーはそう思っていた。
しかし彼には強烈な内的動機、
「俺はいっぱしの男になっていない」がある。

これは強烈な拘り、わだかまりである。

これがあるからロッキーは試合を受け、
これがあるからロッキーは苦しいトレーニングをし、
これがあるからミッキーをトレーナーにするために、
「俺には全盛期なんてなかった」と、自分を傷つける本音を漏らすのだ。

何故彼はそこまで強烈なモチベーションがあるのか?
青春を生きた人なら誰でもが経験したことがある、
「俺は何者なんだ」という強烈な拘りがあるからこそ、
ロッキーは必死だし、
だから私たちは彼を理解するし、 応援するし、
いつの間にか自分と区別がつかなくなるのである(感情移入)。


その拘りや傷は、報われる。
それがカタルシスである。



自分を主人公にしてはいけない、
と僕が口酸っぱく言う理由は、
あなた自信の心の中の拘りや傷を、
主人公に背負わせてはいけないということである。
つい一体化してしまうことで、
魂が入るということは分かる。
だからこそ危険だ。
なぜなら、あなたが克服してもない心の傷を、
彼が克服出来るわけがないからだ。

大抵はご都合主義やメアリースーに逃げてしまう。
(誰かに都合よく認めてもらう、なぜか最強能力者など)
自分自身で解決できなくて。

だから、
主人公のうちに潜む心の傷や拘りは、
あなたが操作できるレベルのものに限定するべきだ。
「その拘りが、カタルシスによって解消する」ということに、
客観的になれて、かつ面白おかしく、ドラマティックに、
書けなければならないからだ。

自分にも分からないモンスターである心の拘りを、
扱うべきではない。

もっとも、
それを扱って、どうにかしようともがくことが、
芸術の探究(のひとつ)であることは論を待たない。
だから、
失敗しないギリギリスレスレのラインを攻める、
ということはよくある。

成功すればアメリカンドリーム、
失敗すればメアリースー。

26歳の時のスタローンは、
それを恐らく知らないまま、
無謀にも自分の心の拘りや傷を、ロッキーに託した。
コントロールしきれない叫びを脚本に書いた。
そこが良かったのだ。

もっとも、単純なボクシングという勝敗を巡るものだから、
アメリカンドリームは成功した。
これがスポーツでなく人生のドラマだったら、
どうやったって上手く成功する話は書けなかっただろう。
26歳の若造にはね。



ということで。

もしあなたの主人公(や他のキャラクター)の、
動機が弱くなってきたときは、
その人の心の拘りや、傷や、わだかまりという、
奥底に降りていってみよう。

その時に初めて創作してもいいし、(過去編)
最初から作り直してもいい。
そして多分後者の方が、完成度は高くなるだろう。


どうしてそんなに必死なの?
たとえば死ぬとしても、それをやりたいの?
どうして?

たとえばドラマ「風魔の小次郎」では、
小次郎は「自分の命の使い道」を見つけた。
姫子(主君)を救うことだ。
それは彼の心の拘り、
「忍びとはなにか、その意味が分からない」から出発したことである。
これが「納得がいった」とき、
最終回でカタルシスとなるわけだ。
小次郎の長台詞のシーンだね。
だからそのあと死んでも小次郎は満足だっただろう。
カタルシスとはそういうこと。
たまたま、聖剣の刃の交錯で、生を拾っただけ。

心の拘りとその解消。

それが本当の動機で、本当のドラマで、
本当のカタルシスである。

しかしそれは目に見えない。
だから、
それが目に見えてカメラに写る、
芝居や行動や結果で、「代わりに見せる」のだ。

外的問題とその決着という、
見た目で起こっていることは、
全てそれが内面の物語の何の代わりになっているか、
を確認しておくことだ。

その内面の物語が弱いから、
つまり拘りや傷やわだかまりが強くないから、
カタルシスも弱くて、
興味も動機も薄れて行くのである。


外面的事件や解決が、どれだけ面白おかしくても、
それは映画ではない。

なぜ途中で感情移入が途切れて弱くなるのか。
それは、主人公の心のカタルシスの物語が弱くて、
外面的なストーリーのどれがその代わりになっていても、
どうでもいいと思えるからである。


あなたの主人公の、心の拘りはなにか。


それを明らかにし、カタルシスへ導くまでの、
行動と結果の軌跡をつくること。
それこそがストーリーである。
posted by おおおかとしひこ at 13:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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