何故主人公(や他のキャラクター)は、
そこまでそんなに強い思いがあるのだろう。
勿論、落ちたら死ぬみたいな、後ろに締め切りのあるよう状況で追い込めば、
強いとか弱いとか言ってられないかも知れない。
しかし、そうではない、その人の内部から沸々と沸き上がる、
その情熱の源泉はなんなのだろう。
それは、その人の心の中で解決していない何か、ではないか?
渇きとか不足とか、欠けていることとか、
人はそれを埋めようとして行動する、
ということは既に書いた。
それだけではないかも知れない。
「拘り」こそが原動力にならないか?
拘りという言葉は、近年いい意味で使われる誤用が多い。
こだわりの味、みたいな使われ方。
しかし語源は泥に拘束される拘泥という言葉が示すように、
心にある、よくないわだかまりのことである。
心にある、何かの傷。
心にある、何かのわだかまり。
心にある、やり直したいこと、言い直したいこと。
たとえば、
「死ぬ前に誰かに伝えたいことがあるから成仏できず、
生前はなかなか言えなかったことを言いに行く、
幽霊もの」というのはもはやひとつのジャンルだ。
それは、心の中のわだかまりを、溶かすことこそが動機になるわけだ。
人には後悔がある。
人には失敗がある。
人には反省がある。
その傷のようなものに触れられたとき、
人はそれをどうにかしたいと思う。
それはその人の根源に根差せば根差すほど、
それをどうにかしたいと行動する動機になるのではないか。
先の幽霊ものと似たジャンルに、
タイムスリップもので、
「あの時出来なかったことをもう一度やるチャンスに恵まれる」
というやつがある。
両方含めて「やり直しもの」というジャンルにしてもいいくらいだ。
古くは映画「タイムマシン」、
最近だと(最近でもないが)「オールユーニードイズキル」もあったね。
「バックトゥザフューチャー」は、
「行動しないと消えちゃう」という後ろから追っかけてくるのが、
基本の動機だが、
「惚れられてしまった失敗を取り返す」という、
「やり直しもの」の行動動機とほぼ同じであった。
心の中のわだかまりというよりは、
コメディ的な要素であるが。
(ちなみにこの映画は、SFよりもアクションよりも、
まずコメディにジャンルが分類されるべきだ。
80年代はコメディにSFXという新しい技術が入ってきた時期でもあったわけだ)
僕がドラマ風魔の前に出した、
4クール女子向けの特撮番組の企画(勿論魔法少女もの)があって、
告白シーンから始まり、返事を聞かないまま、
車に跳ねられて死んじゃうというオープニングだった。
一年前に時間を戻すから、今度こそその日より前に告白を成功させる、
というミッションが与えられる、
「やり直しもの」の大枠のプロットを立てたことがある。
一年前に経験したことを、少しずつやり直しながら、
人々を助ける羽目になる、という枠組み。
なかなか面白いと思って、蔵にまだ入れたまま。
勿論、時空を歪めなくても、
似たようなことは可能だ。
「ルパン三世カリオストロの城」では、
「かつて失敗したヤマへの再戦」が、
ルパンの大きな動機になる。
勿論クラリスを助けたいという、行き掛かり上の目的もあるけれど。
つまりクラリスや指輪の件は、外的動機で、
ゴート札への拘りは内的動機だ。
相変わらず「ロッキー」を例に出すと、
ロッキーの外的動機は、
「尊敬するチャンピオンのスパーリングパートナーになる」
ぐらいであった。
事務所に呼び出されたときまでは、ロッキーはそう思っていた。
しかし彼には強烈な内的動機、
「俺はいっぱしの男になっていない」がある。
これは強烈な拘り、わだかまりである。
これがあるからロッキーは試合を受け、
これがあるからロッキーは苦しいトレーニングをし、
これがあるからミッキーをトレーナーにするために、
「俺には全盛期なんてなかった」と、自分を傷つける本音を漏らすのだ。
何故彼はそこまで強烈なモチベーションがあるのか?
青春を生きた人なら誰でもが経験したことがある、
「俺は何者なんだ」という強烈な拘りがあるからこそ、
ロッキーは必死だし、
だから私たちは彼を理解するし、 応援するし、
いつの間にか自分と区別がつかなくなるのである(感情移入)。
その拘りや傷は、報われる。
それがカタルシスである。
自分を主人公にしてはいけない、
と僕が口酸っぱく言う理由は、
あなた自信の心の中の拘りや傷を、
主人公に背負わせてはいけないということである。
つい一体化してしまうことで、
魂が入るということは分かる。
だからこそ危険だ。
なぜなら、あなたが克服してもない心の傷を、
彼が克服出来るわけがないからだ。
大抵はご都合主義やメアリースーに逃げてしまう。
(誰かに都合よく認めてもらう、なぜか最強能力者など)
自分自身で解決できなくて。
だから、
主人公のうちに潜む心の傷や拘りは、
あなたが操作できるレベルのものに限定するべきだ。
「その拘りが、カタルシスによって解消する」ということに、
客観的になれて、かつ面白おかしく、ドラマティックに、
書けなければならないからだ。
自分にも分からないモンスターである心の拘りを、
扱うべきではない。
もっとも、
それを扱って、どうにかしようともがくことが、
芸術の探究(のひとつ)であることは論を待たない。
だから、
失敗しないギリギリスレスレのラインを攻める、
ということはよくある。
成功すればアメリカンドリーム、
失敗すればメアリースー。
26歳の時のスタローンは、
それを恐らく知らないまま、
無謀にも自分の心の拘りや傷を、ロッキーに託した。
コントロールしきれない叫びを脚本に書いた。
そこが良かったのだ。
もっとも、単純なボクシングという勝敗を巡るものだから、
アメリカンドリームは成功した。
これがスポーツでなく人生のドラマだったら、
どうやったって上手く成功する話は書けなかっただろう。
26歳の若造にはね。
ということで。
もしあなたの主人公(や他のキャラクター)の、
動機が弱くなってきたときは、
その人の心の拘りや、傷や、わだかまりという、
奥底に降りていってみよう。
その時に初めて創作してもいいし、(過去編)
最初から作り直してもいい。
そして多分後者の方が、完成度は高くなるだろう。
どうしてそんなに必死なの?
たとえば死ぬとしても、それをやりたいの?
どうして?
たとえばドラマ「風魔の小次郎」では、
小次郎は「自分の命の使い道」を見つけた。
姫子(主君)を救うことだ。
それは彼の心の拘り、
「忍びとはなにか、その意味が分からない」から出発したことである。
これが「納得がいった」とき、
最終回でカタルシスとなるわけだ。
小次郎の長台詞のシーンだね。
だからそのあと死んでも小次郎は満足だっただろう。
カタルシスとはそういうこと。
たまたま、聖剣の刃の交錯で、生を拾っただけ。
心の拘りとその解消。
それが本当の動機で、本当のドラマで、
本当のカタルシスである。
しかしそれは目に見えない。
だから、
それが目に見えてカメラに写る、
芝居や行動や結果で、「代わりに見せる」のだ。
外的問題とその決着という、
見た目で起こっていることは、
全てそれが内面の物語の何の代わりになっているか、
を確認しておくことだ。
その内面の物語が弱いから、
つまり拘りや傷やわだかまりが強くないから、
カタルシスも弱くて、
興味も動機も薄れて行くのである。
外面的事件や解決が、どれだけ面白おかしくても、
それは映画ではない。
なぜ途中で感情移入が途切れて弱くなるのか。
それは、主人公の心のカタルシスの物語が弱くて、
外面的なストーリーのどれがその代わりになっていても、
どうでもいいと思えるからである。
あなたの主人公の、心の拘りはなにか。
それを明らかにし、カタルシスへ導くまでの、
行動と結果の軌跡をつくること。
それこそがストーリーである。
2017年08月01日
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