2017年08月02日

ストーリーの本質の描き方テンプレ(ビフォー)

暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけましょう。
ストーリーのウリはどう書くべきか?

ビフォーアフターの本質の話を思いだそう。
よくある間違いは、アフターを入れ込むことである。
「この物語は愛と平和を訴える」なんてね。
結論先に言われてもね。
ビフォーの本質を語って、相手をひきこもう。

「AだったがBが。
果たしてCか?」
というテンプレを提案する。



Aには前提を。
Bにはそれと逆になる事件や状態を。
Cはセンタークエスチョンを。

「平和な地球に訪れた、宇宙からの侵略者。
果たしてヒーローはやつらを倒せるのか?」
は、ほとんどのヒーローものに使えるテンプレである。
(宇宙からの、は、異次元とか未来とかロボット帝国とか、
怪人製造科学組織とか、色々変えていいですよ)

これが平凡でよくあるやつなら面白くない。
だから、
今回のヒーローはゲーム空間で闘うんですよ、
みたいなアイデンティティーになるものを付け加える。

「平凡な女の子がクラス一の乱暴者に惚れてしまう。
この恋は成就するの?」
が、80年代の少女漫画のテンプレだ。
ここから発展した、現代では別のテンプレを使っているだろう。

「私を巡る、危険だけど魅力的な男と安心できるが詰まらない男。
私はどっちを取るべき?」
なんてのも古くからあるテンプレだよね。

(この場合登場順で二人の男がABの逆になる訳です。
分かりやすいのは、詰まらない恋人との日常に、
魅力ある危険な男が登場するパターン。
逆なら、危険な男に惚れて傷ついたヒロインに、
「あんなやつやめて俺にしろよ」って幼なじみが言うパターン)

ヒーローものと同様、
その作品のアイデンティティーを付け加えて、
平凡にしないやり方がある。
生徒会を舞台に、とか、
一人は超能力者とか、一人は未来人でタイムスリップとか。


バックトゥザフューチャーは、
「冴えない高校生マーティーが過去へタイムスリップすると、
偶然高校生の頃の母を助けて惚れられてしまった!
マーティーは冴えない高校生の父に、母を惚れさせられるのか?」
と、三角関係のテンプレに、
少年の成長もの(冴えないことの克服)とタイムスリップを組み合わせたものである。


AがBなる異物に出会うことで、
Aでないもの(大抵は真逆)に変化していく、
というのがドラマの本質だ。

だからBとCで、変化の結論を暗示できると最高だ。
その暗示は、結論の断定(アフター)でなく、
期待(ビフォー)になるからである。

「お調子者の風魔忍者小次郎が、学院の助っ人に派遣される。
しかしライバル校の助っ人にも夜叉一族の忍びがいた!
小次郎たち風魔一族は夜叉一族を倒し、
学院に平和をもたらすことが出来るのか?」
が「風魔の小次郎(夜叉編)」である。

実際これは、先行する学園忍者もののテンプレに、
「相手方にも忍者一族が加担していて、
忍者同士の全面戦争になる」という部分を足したところが、
他のコメディ学園忍者もの
(伊賀のカバ丸、さすがの猿飛、コータローまかりとおる!など)
と一線を画したもので、
車田正美の真骨頂、バトルものへの予感を強く感じるわけである。


ドラマ版では、
「お調子者」をうまく使っていて、
「初めての任務で右も左も分からない若者が、
忍びとは何かを悟っていく」という真ん中のドラマに利用している。

でもこれはあくまでもアフターの本質だ。

「未熟でお調子者の小次郎が、初めての任務で、
仲間の死に触れたり、主君に惚れたりすることで、
人間とは何か、忍びとは何かを経験し、
人間でも忍者でもある、新しいあり方へと到達する」
なんて書いたとしても、
ビフォーの人には「なんのこっちゃ」だ。

「車田正美初のドラマ化!」
なんてニュースの第一報でこれを紹介されても、
「原作と全然ちゃうやんけ!」と、
期待を裏切ることになる。

アフターの本質をビフォーの人に投げるのは、
失礼に当たると僕は思う。

「見て楽しむ(先を予測したり、リアルタイムで泣き笑いを共有する)」
という、これからやることを全否定しているからである。

映画「いけちゃんとぼく」の宣伝ポスターに書かれたキャッチは最悪だ。
これを全否定したアフターだからである。
(ネタバレ覚悟で画像検索のこと。
まあ猿の惑星のDVDジャケットと同じですよ)



逆に。アフターのネタバレをせずに、
ビフォーを書いて、
それは面白そうでなければならない。

それがどこかで見たような平凡なものであったり、
期待できるものでなかったりするときに、
初めてストーリーにウリがない、
と言って良いのではなかろうか。
(じゃあ役者や音楽で、ウリを足そうと言うのが本来だ)


つまり、
企画会議では、
本来ストーリーのウリ(ビフォー)を検討し、
かつストーリーの本質(アフター)を検討し、
それがどれだけ心に響くかを脚本を通じて検討し、
その中身が商売に値すると確信したら、
そこにプロデューサー(商売人)が、
役者や音楽やロケ地などのウリをガワに被せて、
商売にするべきだ。

(今のダメなやり方は、ガワを用意したあとに、
中身をそれに合わせて作る、誤った作り方だ)

当たり前だけど、
それにはストーリーの本質を捕らえる実力がいる。
実力がないやつらがワイワイやって、
邦画は転落中である。





(映画「いけちゃんとぼく」に限れば、

「いじめられて想像の世界に逃げるヨシオには、
彼にしか見えないいけちゃんというオバケがいる。
父が死に、現実に立ち向かわなくてはならなくなったヨシオ。
彼はいじめを克服出来るのか?いけちゃんはいつまでいるのか?」

というようにすれば良かったはずだ。
しかし何度かここで書いているように、
こうなる筈の脚本が、CG費を1億途中で削られたため、
「想像の世界」を構築する予算がなく、現実のいじめだけになってしまった。
それでも粘土細工などで最低限抵抗したが)
posted by おおおかとしひこ at 17:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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