芝居は台本の通りに行われる。
ということは、下手な芝居が書いてあったら、
その芝居は誰がやっても下手だ。
音痴な楽譜をどう歌っても音痴になるのと同じだ。
下手な芝居を書くな。
当たり前なんだけど、
あなたが上手い芝居下手な芝居を知ってないと、
書くことも却下することも出来ない。
下手な芝居の例をあげよう。
1. (○○○)という感情の顔をする。
2. 「机の下で拳をにぎる」で怒りを表現する。
3. 芝居がかったセリフのやり取り。
4. リアルな段取りを一々描写する。
一つ一つ、撲滅してゆく。
1. (○○○)という感情の顔をする。
クレショフのモンタージュ実験を理解していない。
結論だけいうと、
「前のカットで文脈があれば、
次のカットで無表情を繋いでも、
その文脈のリアクションをしているように見える」
というものである。
さらにいうと、
「たとえ別の文脈で撮影された表情でも、
その文脈に差し込むと、
(本来とは別の)その文脈でリアクションしているように見える」。
これは編集の基礎である。
別素材を差し込んだって、そう見えちゃうんだから不思議だ。
「リアクション芝居足りねえな、よそから持ってこい」
てのはまれによくあることだ。
勿論激しい表情はばれちゃうから、
人の話を聞いてる、本来は使わないところをリアクションカットに使ったりする。
大袈裟に頷くとかより、ただまばたきをするとか、
微笑むくらいが使いやすい。
これが成立するのは、
「その前にしっかり文脈が作られている」ときに限る。
その文脈でえあれば、その相応しい芝居をするものだし、
たとえ無表情でも、怒りや安心や切望などを、
人はそこに感じることが出来る。
能面の原理である。
ロシアのモンタージュ理論家クレショフは、
日本で発達した仮面劇の原理を、
20世紀に至って発見したにすぎない。
以前、CMのセリフを言うときに、
某プランナーの人が、
「一度目を閉じて、間をおいて、目を見開いて決断するように」
なんて具体的指示をコンテに書いていて、
こいつ無知だなと思ったことがある。
その以前に文脈を作ることを放棄していると。
文脈を作る技能がないと、
表情に託すしかないんだな、
と、低レベルの人たちを見る思いだった。
多分イーストウッドアプローチ
(そのシーンの前のシーンを書いておき、
そこから演じさせると自然なセリフになる。
前の文脈からやるからだ)すら知らないのだね。
その人にその表情を「させる」と思っているからそうなる。
そうではない。
誰もがそういう感情になってしまう文脈があれば、
その人が無表情でもそれは伝わる。
これがモンタージュの、「アップ」の考え方。
例外は、以前に文脈がない、
たとえばシーントップである。
課長「(怒りの表情で)何故俺が怒っているか分かっているな?」
みたいなはじめ方の時だけだろう。
これは、「文脈がない人にも感情を伝える」方法だ。
恐らく眉をつりあげ、顔をしかめ、怒り肩で体を大きく見せ、
手を腰に当てているだろう。
まるでマンガ的だ。
マンガ的とは、つまり文脈がなくても分かるような、
バカでも分かる記号表現ということである。
芝居は記号ではない、とその真髄を語れるだろうか。
芝居とは文脈だ。
その文脈が、まるでそこで起こっているような、
リアルをつくること。
台本にそのリアルがなくて、
記号表現ばかり(たとえば全て顔文字付の台詞)なら、
俳優はそれをリアルにしようもない。
2. 「机の下で拳をにぎる」で怒りを表現する。
上に同じ。
「最上の台詞とは無言である」というのはハリウッドの格言だが、
それは拳を握って怒りを伝えることではない。
伝えるのではない。自然にそうだと分かるようにする。
A「…」で、それが伝わるように、
それまでの文脈を書けばよい。
たとえば下に見た要求をされそれを飲まなければいけない状況とかだ。
A「(作り笑い)」
であっても、怒りを表現することはできる。
上級者が使うものに、
A「…」のような、「…」表現がある。
これは全て1、2のような下手芝居をカットするつもりのものである。
台本に書いてなくても勝手にやる三文役者を振り落とすためだ。
逆に、あなたの台本の、
芝居への指示を一度全部「…」にしてみよう。
9割9分は必要なかったものだ。
もしそれがないと分からないとすれば、
あなたはそもそもそのような文脈構築に、失敗している。
3. 芝居がかったセリフのやり取り。
下手な役者ほど、大袈裟な身ぶりや抑揚をつけすぎる芝居をする。
歌舞伎的というか。
(歌舞伎は、「傾く」という語源通り、
大袈裟にするという意味である)
何年も人生を生きてきて、人がそんな言い方をするのを、
一度も見たことがないはずなのに。
映画は人生の再現的凝縮だ。
大袈裟に言うのはマンガだけでいい。
セリフや身ぶりが記号的になってはならない。
それは下手なアニメやマンガの見すぎだ。
人生を見ていない。
4. リアルな段取りを一々描写する。
逆にリアルすぎるとこうなる。
たとえば電話の会話。
A「お世話になっております、Aです、ご無沙汰です」
B「お世話さまです。失礼ですが」
A「あ、ああ、○○の件でお世話になりました」
B「ああ、あの時の」
A「あの時は暑い夏でした」
B「そうだったそうだった。懐かしいな」
A「ところで本題なんですが」
B「ああ、何でしょう」
A「実はですね、…」
リアルかも知れないが、これはデブリだ。
(前記事参照)
こう書き換える。
B「(電話で)で、本題は何かね?」
A「実はですね…」
これだけで十分だ。
シーン頭をこれからはじめ、
前のシーンが
A「知り合いを辿ってみるよ」
で終わっていれば、
ストーリーはスムーズに進行する。
省略の一種である。
省略には何通りもあるけれど、
これはデブリ除去という省略だね。
仕事の電話で「お世話になっております」ではじめるのは、
お世話関係なく当然のマナーだけど、
そういうことがあとあと使われないのなら、
それはリアルかも知れないがストーリーに寄与しない。
むしろ進行にブレーキがかかる。
この場合の焦点は、電話で何かを頼むことであり、
久しぶりの再会ではない。
映画は人生の活写であるが、
コピーではない。
リアルには無駄が沢山あり、
それはデブリになり、
ストーリー進行を妨げるコレステロールになり、
血栓になる。
私たちはリアルなストーリーが見たい。
リアルでもダメだし、
ストーリーになっていないのもダメだ。
私たちの没入を邪魔するものは、
全て下手な芝居である。
没入へのノイズを、コントロールせよ。
それには、下手な芝居と上手い芝居の差を理解し、
下手な芝居の台本を書かず、
上手い芝居の台本を書くべきだ。
意外と、「それが下手な芝居である」ということを気づいていない人が多い。
昨今の実写化はだいたいそうだ。
漫画原作の記号表現を無分析でコピーしているからだろう。
それはそれ、芝居は芝居、とメリハリつけているものは少ない。
言うまでもなく、ドラマ風魔はそれが上手いこと成功している。
2017年08月03日
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