2017年08月04日

最後まで書き終えたら起こること

最初は解放感と満足感で満たされるのだが、
ちょっとすると、リライトの虫が湧いてくる。

「あれもいれときゃ良かった」
「あれを入れるつもりだったのに、忘れてた」
と、追加をたくさんしたくなることだ。


これは入れるべきなのか。
僕は「ちょっと待て」という。
まずそれをリストアップしておけ、
ということにしている。

10個だろうか、50個だろうか。
入れたかった沢山のことを、
事細かにリストアップしておくこと。

これらを眺めると、
二つのパターンに気づく。
最近議論している、
ビフォー的なものと、
アフター的なものである。

書き終えたあとに入れた方がいい、
と判断する要素は、
たいがいアフターの考えであることが多いのだ。

「読む前にこれがあると、
情報量が増えて、ややこしくなり、
現在の強い焦点が、ぼやけてしまう」
かどうかを、アフターからは判断できないのである。

これは最もあり得る、リライトの判断ミスだ。

書いたときの無意識は、「今あるこれに集中している」
がゆえに、それ以外のものをカットしたはずだ。
削ることは集中である。
集中と緩慢を作るとき、
要素を足せば足すほど緩慢になる。

つまり、
アフターで判断して、足した方がいいと考えられるものは、
大抵、ビフォーからすると薄め要素になる。
要素は増えるのに、集中が薄まるのだ。

ビフォー、つまり初見で、
ここが足りない、ここは十分である、ここはもっと削って集中を強めたほうがいい、
なんて判断をするには、
アフターの目線では難しい。
従って、僕はしばらく放置せよ
(一週間から数ヶ月)、
ということをオススメしている。

放置している間に、ああしたいこうしたいというのを忘れるので、
とりあえず思いついたこと全てをリストアップしておけ、
ということだ。


リストアップした時点で、
「作中の矛盾や唐突やご都合などの構造的欠陥を、
足すことによって防げるもの」に、
丸をつけておこう。
それ以外は「好み」としておこう。多分ガワに関するものだ。

で。
丸をつけたものが、
あった方がいいと考えるのは、
あくまでアフターだからだ。
ビフォーから見たときに、
それはネタバレにならないかとか、
話がややこしくなりどこ見ていいか分からなくなるかとか、
想像するのは困難になる。

ビフォーで大事にすべきは、
「想像する楽しみ、わくわくする予感、
予測と実際があってるかどうか確かめたいこと、
感情移入」
などだからである。

それを「あとあとの都合」で何かが足されてしまえば、
そこは凸凹したものになり、
必ず歪になるはずだ。

これは、おそらくリライトで起こる、
最もポピュラーで最もダメなことではないだろうか。


「一回理解したことを改良する」と、
「初見で見て最高のものを作る」を、
分離することはなかなか出来ない。

この人間の性質を知っておくといい。
たとえば余計な機能が沢山ついた家電を思い浮かべてみるといい。

余計な機能は、メイン機能を理解したあとに付け足したものである。
最初からその機能があったら、ややこしくてスムーズに理解出来なかったもののはずだ。
進化は増えることのような気がするけれど、
実際袋小路になることもある。

iPodの出現が何故爆発的大ヒットになったかというと、
ゴテゴテ機能がついて複雑化していたウォークマン業界で、
びっくりするほどシンプルだったからである。
余計なものが一切そぎおとされ、
ホイールで音量調節と曲を選ぶだけ、
という恐ろしくシンプルな構造だったから、
大ヒットしたのだ。

私たちの書くストーリーは、
そのようになるべきである。
なぜなら「初見でいいもの」を作るからだ。

何回か見てようやく意味の分かるものはだめだ。

余計な機能が沢山ついていて、
なにしていいか分からないものは、だめだ。



僕はそういうのを、「枝刈り」と呼ぶことがある。
余計な枝が伸びた木を、スッキリ整える行為だ。

本来リライトは、そのようになるべきである。

にも関わらず、
アフターから見ると、どんどん足したくなるんだよね。



これは、プロデューサーとの脚本会議、編集会議でも頻繁に起こることだ。
(ということがようやく分かってきた)
アフターの視点でのリライトのアイデアなのか、
ビフォー視点でのリライトのアイデアなのか、
見極めなければ混乱への道をすすむ。
正解は、
「アフターの批評を持ちながら、
ビフォーの視点でのリライトをすること」なんだけど、
そんなん出来る人は滅多にいない。
何故なら、人は「見たものに対して文句をつける」からである。
「見る前にこうだったら良かった」は、
見たあとには想像できない。
(そして、たいがいの脚本会議は、脚本を読み終えた直後に行われる)

このとき、あなたがアフターの視点からリライトしてしまうと、
なんだか分からないものになるんだよねえ。



映画「いけちゃんとぼく」の編集で、
最初の野原のいじめシーンで、
「いけちゃんが助けようとするんだけど、
通り抜けてしまって触れられず、
いけちゃんが地団駄を踏む」というのが当初の台本で、
それ前提で撮影もされていた。
ところがプロデューサーの一言で、
「ここのいけちゃんはカットして、単なる子供たちのいじめにしよう」ということになった。
僕はこれを今でも後悔している。
(ちなみにこの人は、その後野球を全カットしてはどうか、
とのたまった人だ。多分全然脚本を理解してなくて、
自分の思い描いたやつと違う部分を直せ、としか言ってなかったんだよな)

アフターの視点のリライトは間違いだ。
ビフォーの視点から見なければならない。

それは、
万人が常に出来ることではない。
だから、
「リストアップしておいて数週間は放置し、
メモを取らずに一気読みする。
その後色んな感想を書く。
リストアップしたものを引っ張りだし、
ビフォーの視点から検討する」
という方法論が効果的だと、
僕は考えている。



僕は理系出身なので、
ついつい「書く順番とか要素はどうでもいい。
無矛盾で要素がそろえば、理屈としては正しい」
と考える癖がある。
「ゼロから読んで、次々にワクワクが広がり、
ラストの一点に収束する楽しみ」を忘れてしまいがちだ。
自戒も兼ねて、ここに記しておく。

脚本は、設定のプレゼンではない。
初見のワクワクと大満足のことである。
posted by おおおかとしひこ at 14:15| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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