たとえば、昔「夢落ち」は厳禁だと言われていた。
色々あって、「なんだ夢かあ」となっては、
これまで築いてきたものが全否定され、がっかりだからである。
しかしたとえば、
「実は主人公は狂っていたのだ」という手法によって、
夢落ちは現実的なストーリーを紡ぐ方法を得たようなものだ。
あんまり例を挙げるとネタバレになってしまうので、
沢山の作品を出すことは控えよう。
その、「狂っていたのだ」を題材とした映画に、
ナッシュ均衡の数学理論で有名なジョン・ナッシュを主人公に描いた、
「ビューティフル・マインド」という映画がある。
数学者である彼は、
世界中にある数字の情報に、ロシアの暗号が含まれていることに気づく。
その謎の暗号を必死で解く。
暗号たちは彼を翻弄する。壁に少しずつそれらを貼っていく。
しかしあと一歩まで迫ったそのとき、
彼は狂っていたことがわかる。
壁一面に膨大に貼りつけた、
関連していると思われた暗号は、
ただの数字だったのだ。
この物語が秀逸なのは、
これは落ちではなく導入だと言うことだ。
夢落ちは、これまでを台無しにする全否定だ。
それは主観に過ぎなかった、
と言われればがっかりだからだ。
ところがこの物語は、
全否定が衝撃的に響く。
「私は狂っていた」という自覚によって。
以降は狂っていたことを認めて復帰するという、
力強い物語になる。それが本作の本題だ。
本題を台無しにする夢落ちを前半に使い、
うまく前提をひっくり返すことに成功しているわけだ。
「主観ではそう思っていたのだが、
ラスト、狂っていたことがわかり、
その人物はいなかった/その世界はなかった」
などのようにどんでん返しする作品が、
一時流行った。
どんでん返しの新しい手法に、
夢落ち的なものが加わったのだ。
「今までのは全部ひっくり返る。
そういえばあれもこれも、全て辻褄があう」
という、今までの伏線が一気に効いてくる、
どんでん返しの一種であるから、
用意周到に仕掛けられなければならない。
「今までのことを決着できないから、
夢だったということにしてうっちゃりをかます」
という、未熟な意味での夢落ちではないことに気をつけよう。
主人公は○○だった、というどんでん返しでは、
狂っている以外にもいくつかパターンがある。
ナイトシャマランはそれで世に出た。
これは一種の叙述トリックかもしれないね。
(以下ちょっとした作品リスト。見たくない人は、
この()のブロックを飛ばして先へ。
「アンブレイカブル」「シックスセンス」がある。
構造を逆手にとった「ヴィレッジ」もあった。
シャマラン以外では、
大昔には「ジェイコブス・ラダー」もあったなあ。
そうそう「シャッターアイランド」や「アザーズ」なんかもね。
僕はフィンチャーの「ゲーム」が好きだ)
映画は主人公が語り手のようなものだ。
だから語り手に関してなら叙述トリックを仕掛けられるわけだね。
全てをひっくり返して責任をとらない、
未熟な手法としての夢落ちは、
全てをひっくり返して辻褄を合わせる、
熟練のどんでん返し叙述トリックへと、
進化したわけだ。
こういうことを知るのも楽しい。
解説してくれる人がいないと分からないことだろうけど。
横断的に手法を見ていくと、進化の歴史があったりする。
それは、みんな色んな映画を見て、
パクるのではなく、
より新しくしようとしてきた結果なのだ。
パクるやつは死ね。
劣化コピーも死ね。
ララランドはパクリと劣化コピーだらけなのに、
それを知らない世代に受けている。
進化どころか、映画の退化である。
学者がちゃんと系譜を紐解かなきゃねえ。
何をやっとるのだ学者たちは。
映画を勉強する、ということは、
そのような影響関係、進化関係を見るということでもある。
昔の映画がたいして面白くなくても、
「それを初めてやった映画」だと知ると、
それ以降のあれもこれも、全部これの系譜なのか、
とわかることもあるわけだ。
たとえば「駅馬車」は、密室ものを移動する車(馬車)の中でやった、
(おそらく)初めての作品。そういう感じ。
たくさん映画を見よう。
ただし、面白かった面白くなかったという観客の目線(これも大事)ばかりでなく、
このような表現の歴史の系譜を知りながら見ておこう。
過去を知れば、「そこは既にやった人がいる」を知ることができる。
我々は、「まだ誰もやったことがない面白いこと」を、
つくるのが使命である。
2017年08月08日
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