> キャラクターの死について質問です。 良い殺し方(こう書くとなんか物騒な言い方ですが…)とはどんなものでしょうか? 悪い殺し方との違いは何でしょうか? (この場合の死というのは肉体的な意味のほかに 物語から退場するという意味です) メインキャラの死亡というのはインパクトがあります。 なので僕は安易に使ってしまうのです。
物語は人生の反映です。
どこか架空の星の別の生命体のことではありません。
人生で考えれば良いのです。
身近な人やペットを亡くしたことはあるでしょうか。
好きだった人が亡くなったことはあるでしょうか。
良い死悪い死普通の死は、そこにあるでしょうか。
僕は必要以上に人の死を重く扱うことは好きではありません。
死は生とペアです。
死を軽んじることは生を軽んじること。
死を重んじることは生を重んじること。
死だけを重く扱って、生を軽く扱うことは、
僕は許せないですね。
良い死は、良い生とペアです。
悪い死は、悪い生とペアです。
普通の死は、普通の生とペアです。
死の意味は、生の意味とペアです。
表裏一体かもしれません。
登場人物たちが、
登場人物の生をどのように受け止めているかは、
その人の死をどのように受け止めるかと、
まったく同じことだと思います。
「普段は表面には現れていなかった本音や本性が、
イベント時に顕れる」というのは、
現実でも物語にでもよくあるものです。
バーベキューで、生徒会の仕切りで、
酔っぱらったとき、忘年会のとき、夏合宿のとき、
受験のとき、クリスマスのとき、
結婚式の準備のとき、出産のとき。
どれも同じです。非日常だからです。
コメディだろうがシリアスだろうが、
イベントは、登場人物の本性を丸裸にするためにあったりします。
もしそのイベントで、
本性が出ないとしたら、
それまでのキャラクター作りに問題があると思います。
表面と本性を分けて描いてないとか、
本音と建前を設定していないとか、
そのギャップを物語に利用していないとか、
推進力として使っていないかとか。
で、
人の死も、ひとつのイベントに過ぎないということです。
葬式や死と、
たとえば結婚式でポロリと本音を出してしまう話を、
同程度に扱えればなんの問題もないですが、
死だけを使うのは、安易だと言われてもやむなし。
道具に偏りがあるというか。
死を描くことは、裏側から生を描くこと。
安易な死は安易な生ではないでしょうか。
拙作ですが、
ドラマ「風魔の小次郎」における麗羅の死は、
ターニングポイントとして機能しています。
「自分達の生きる意味」を突きつける重大なイベントです。
この事件に対して主人公小次郎は、
リアクション(行動)をします。
「安易に暴走するのではなく、風林火山を完成させること」という行動。
それは、彼なりの「生きる意味」へのアンサーになるわけです。
この時点以前と以後では、
やはり主人公に変化が訪れています。
それは人生のターニングポイントであり、
物語上のターニングポイント(第二ターニングポイント)になっています。
原作版では、麗羅の死に意味はありません。
最強の敵武蔵の噛ませ役としての雑魚でした。
そこに僕は意味を持たせたわけです。
死には意味があります。
生に意味があるように。
単純に、死イベントを封じ手にするというのが、
強力でかつキツイ解決策だったりします。
生の意味を、死を使わずとも描けるようになったとき、
それを解禁すればいいと思います。
本当に(哲学的に/宗教的に)死に意味があるかは分かりません。
生に意味があるかも分かりません。
少なくとも、物語は、
生に意味があるという形式だと思います。
だから、死に意味があることと、表裏一体です。
死に納得するのは、生に納得するとき。
良い死悪い死普通の死は、それぞれ、良い生悪い生普通の生、
ということかと思われます。
(たぶんこれは仏教ベースの考え方で、
キリスト教はまた別の死生観があるかもしれません)
ついさっきまで死「だけ」で捉えていましたが
なるほど…生とペアで考えるという観点はありませんでした。
>人の死も、ひとつのイベントに過ぎないということです。
葬式や死と、
たとえば結婚式でポロリと本音を出してしまう話を、
同程度に扱えればなんの問題もないですが、
死だけを使うのは、安易だと言われてもやむなし。
道具に偏りがあるというか。
納得しました。
死だけを重く捉えすぎていたようです。
丁寧なご回答、どうもありがとうございました。
精進します。